先に紹介した憶良や旅人などの老歌人も、この辺りを往来したのでしょうか。西鉄太宰府駅前から、都府楼跡方面へ向かう「歴史の散歩道」を、ひとり、例によって、のんべんだらりと歩いていると、観世音寺の案内板に出会いました。
憶良や旅人が九州に赴任していた時期から、さらに時を遡ること60年余り、彼らが生まれているかいないかの、まだ飛鳥時代に、日本は朝鮮半島に出兵しました。白村江の戦いです。
出兵の前々年、準備のため、時の女帝、斉明天皇は、息子の中大兄皇子(のちの天智天皇)を伴って都から海路をはるばる九州に向かい、その途中、四国の熟田津に寄港しました。
「秋の夜長の月物語」のページでも紹介していますが、天皇一行が、再び出港するとき、随行していた額田王(ぬかだのおおきみ)は、有名な次の歌を詠んでいます。
熟田津に船乗りせむと月待てば
潮も叶ひぬ今は漕ぎいでな
九州に到着した後、長旅の疲れからか、斉明天皇は現在の朝倉で没し、その菩提を弔うために造られたのが観世音寺です。
その観世音寺は、鬱蒼とした森の中にありました。
観世音寺の講堂は江戸時代に再建されたものだそうです。
碾磑(てんがい)とは石臼のことです。講堂の左手前にありました。石臼は昔、我が家にもあり、煎った大豆を挽いて黄粉を作っていましたが、こんな大きな石臼で何を挽いたのでしょうか。一説によれば、染料の朱を作るために水銀の鉱石を挽いていたとも言われています。
観世音寺の梵鐘は日本最古であり、国宝になっています。
横の説明板には、「京都妙心寺の鐘と兄弟」と書かれていますが、観世音寺と妙心寺の梵鐘は同じ鋳型から造られているそうです。
また、この鐘が福岡県粕屋郡の多々良(現在では福岡市に編入)で造られたとも記されていますが、多々良の地名も、ふいごを意味する蹈鞴(たたら)や鑪(たたら)に由来しているのでしょう。多々良に古代溶鉱炉があり、そこで二つの梵鐘が造られたようです。
さらに、説明板に一部分が引用されている菅公の詩とは、菅原道真の七言律詩「不出門」の一節です。菅原道真は、憶良や旅人から、今度は時代を下ること、170年後、平安時代に、都から大宰府に左遷されてきましたが、毎日、見るのは都府楼の屋根の色であり、聴くのは観世音寺の鐘の音だけと書かれています。
道真は、ここ、観世音寺や都府楼跡から少し離れた場所にひっそりと暮らしていましたが、訪ねてくる人もなく、罪人同然の扱いだったようです。
観世音寺には五重の塔もありました。塔の中心の柱を支える巨大な礎石が残っています。
南大門跡です。
観世音寺の入り口です。どうやら裏から境内に入って、今、入り口にきてしまったようです。
観世音寺の建設は、大海人皇子と大友皇子の間での皇位継承を巡って起きた壬申の乱のために、途中、中断し、完成までに80年の歳月を要したそうです。九州在任中の憶良や旅人が見たのは、広大な敷地のなかで、まだ増築中の観世音寺だったのでしょう。
観世音寺の隣に戒壇院がありました。
もともとは観世音寺の一部として造られましたが、現在では臨済宗の寺になっています。
禅宗の寺の入り口には、たいがい「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)と書かれていますが、ここでは、葷(くん:ニラやニンニク)と酒だけでなく肉も持ち込み禁止のようです。もともと1本の石柱だったのが途中で折れて2本になってしまい、それを並べて立てているようです。
授戒が行われていた戒壇院本堂です。奈良時代、危険を顧みず、度重なる苦難の末、唐から日本に渡ってきた鑑真は、盲目になりながらも、言葉も習慣も違う異国の若い修行僧たちに、僧侶としての心がけや戒めを教授したのでしょうか。
留学生を含む学生相手に、いつも眠たくなる授業をしてきた私としては、鑑真の情熱に敬意をはらうとともに、当時の授戒の様子を参考にさせてもらいたいものです。
鑑真和上の供養塔(右)です。
観世音寺と戒壇院を後にして、次に、菅公館址のある榎社に向かいました。その途中、大宰府学校院跡を通りました。奈良時代に九州管内の国司の子弟が、読み書きや算数、医術を学んだようです。建物はすでになく、現在は広い草むらのなかに、後で作られた標識だけがありました。官吏養成の学校だったようです。
菅原道真が暮らしていた菅公館址です。左遷されてきた菅原道真は、ここに謫居(たっきょ)していました。亡くなるまでの2年間を都を思いながら過ごしたことでしょう。前述した漢詩「不出門」もここで創られました。
その後、道真の霊を弔うため菅公館址の横に榎社がつくられました。私が訪れたのは土曜日でしたが、参拝客は一人もなく、大宰府天満宮の人出に比べれば大変な違いです。どちらも学問の神様の菅原道真公が祀られているのに、ここでは御利益がないのでしょうか。
謫居中の道真の身の回りの世話をした浄妙尼を祀った祠(ほこら)です。
次に大宰府政庁跡(都府楼跡)に着くと、その入口に大伴旅人の歌碑がありました。
やすみしし わご大君の食国は
倭も此処も同じとぞ思う
要潤: 「あ、来ました、来ました。大伴旅人さん御一行のようです。ちょっと、話を聞いてまいります。」
「旅人さん、到着されたばかりでお疲れのところを恐れ入ります。華やかな奈良の都から大宰府に転勤されてきた今の心境を一言お聞かせいただけないでしょうか。」
旅人:「あなたは私に比べれば随分お若いようなので、大宰府勤務と言えば、すぐに左遷と思われるかも知れません。しかし、百年、二百年後のことは知りませんが、今、大宰府は遠の朝廷(みかど)と呼ばれている重要な地です。私にとって、倭(やまと)も、ここ、大宰府も同じことなのです。大陸との外交と、九州一円の防備という大任を仰せつかったのですから、これまでどおり、全力で職務を全うするだけですよ。」
スクープハンターのインタービューに、そんな答が返ってきそうな旅人の歌ですが、病弱の妻を伴っての年老いてからの、知らない遠い土地への赴任、その心中はいかばかりだったのでしょうか。
山上憶良が筑前守として赴任したとき、彼は既に60代の半ば過ぎ、その憶良に2年遅れて、太宰帥(だざいのそち)として大宰府に来た大伴旅人も60代になっていました。当時としては二人とも大変な老人だったのでしょう。
旅人は赴任後すぐに最愛の妻を亡くしました。そのため、亡き妻を偲ぶ多くの歌を詠んでいます。
我妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は 常世にあれど見し人ぞなき
旅人が任期を終えて都に帰るときに詠んだものです。来るときに妻と一緒に見た鞆の浦のむろの木は今も変わらずあるのに、妻はもういません。何とも切なく悲しい歌ではありませんか。旅人も帰京後、大納言に取り立てられたものの、間もなく病死しました。そして、旅人とともに、万葉筑紫歌壇をリードしてきた山上憶良もほぼ同時期に没したようです。
旅人が、九州全体を統括する太宰の帥として職務に当たった大宰府政庁のあった都府楼跡は、今では市民の憩いの場となっています。広大な敷地と発掘された敷石が往時の建物の大きさを偲ばせます。
政庁跡の向こうに見える小高い山が旅人の異母妹の坂上郎女が詠んだ歌にでてくる大城の山です。飛鳥時代に大野城が造られていました。
今もかも大城の山にほととぎす 鳴きとよむらむわれなけれども
坂上郎女が帰京後大宰府時代を懐かしんで詠んだこの歌の歌碑は西鉄太宰府駅の前にあります。
正殿跡です。都督府古址(ととくふこし)と書かれています。
あおによし寧樂(なら)のみやこは 咲く花の薫ふが如く 今さかりなり
政庁跡に造られている小野の老(おゆ)の歌碑です。旅人の部下として大宰府に赴任してきたとき、旅人が開いた歓迎の酒宴で詠んだものです。新任の挨拶とともに、みんなが知りたがっている都の様子を歌にして紹介したのでしょうか。
歌を詠むのは当時の人の嗜みとは言え、周囲の雰囲気を察知して、即興で詠むのは大変だったでしょう。現代なら、私のように無芸大食で空気の読めない人間でも、型どおりの挨拶をして、宴たけなわとなって、マイクがまわってくれば、いつもの下手な一曲を披露すれば済みますが、和歌の場合は、毎回、同じものというわけにはいかないでしょう。カラオケで懐メロを歌うのとは大分違うのかも知れません。
政庁跡の隣に坂本神社があり、そこにも旅人の歌碑がありました。
わが岡にさ男鹿来鳴く初萩の
花嬬問ひに来鳴くさ男鹿
これも亡くなった妻を偲んで詠んだ歌です。この辺りに旅人の邸宅があったようですが、寂しさを紛らわすためか、自宅に大勢の人を招待しては酒宴を開いたようです。万葉筑紫歌壇の人々はそのたびごとに和歌を詠んだのでしょうか。
今回、都府楼跡周辺の筑紫野を歩きましたが、たいした距離でもないのに、7月初旬、日中の陽射しは古希を迎えた身には、少々応えました。
当時の建物はほとんどなく、あるのは礎石と石碑だけでしたが、朝ドラの花子に倣って「想像の翼」を広げれば、大伴旅人をはじめ、大宰府にゆかりのある古代の人々の日常を垣間見た気分になりました。そこで、恥ずかしながら、私も一首。
筑紫路に軒を借りれば
いにしえの言霊乗せて
せどや風吹く
天満宮の賑わいに比べ、政庁跡近くの誰ひとり居なかった坂本神社が、この5年後に新元号発祥の地になろうとは!