疑惑その3:悪人正機説

 犍陀多なる男、自己中心の悪人には違いないが、物理教育にとっては、大変、利用価値のある男、蜘蛛の糸が切れても、何とか助ける手立てはないものだろうか。そんなことを考えていた矢先に、数人の学生から、おかしな目撃情報が舞い込んできた。

 最近、あちこちで犍陀多本人を見かけるというのだが、これまでの超能力騒動や宇宙人騒動のときのように、今度もまた、どこかのテレビ局が高視聴率を狙って画策し、若者を煽り立てているのだろうか。しかし、どうやら今度ばかりは本当のようである。

 お釈迦様のご慈悲で助かりかけていたのに、あと一歩のところで、惜しくも、ゲーム・オーバー。蜘蛛の糸が切れ、もとの地獄に戻ったはずの男が、現世に大手を振って現われ、いつの間にか子分まで引き連れ、再び、悪の世界に君臨しているとは、あの世もこの世も、一体、どうなってしまったのだろうか。一筋縄ではいかぬ男の奇想天外な物語をお話ししよう。

     善人なおもて往生をとぐ
     いわんや悪人をや

 親鸞(しんらん)の死後、その教えが、都合のいいように勝手に解釈されていることに、弟子の唯円(ゆいえん)は嘆き悲しみ、師の真意を後世に伝えようと、親鸞の語録「歎異抄(たんにしょう)」を涙ながらに著したという。

 唯円や彼に続く後継者達の地道な努力により、親鸞の教えそのものは正しく解釈されるようになったものの、最近では、間違えた解釈のほうがむしろ現実を正しく表しているのではと、そんな穿った見方をする若者が増えてきたという。そんな折も折り、あの小説のモデルとなった男の証言が、文学界にとどまらず、宗教、倫理、哲学そして物理学に至るまで、あらゆる関係各界に衝撃を与えたようである。

 男の証言によれば、蜘蛛の糸を登る途中で叫んだのも、蜘蛛の糸が切れたのも確かな事実だが、そのあとは小説とは異なり、実際は、蜘蛛の糸が切れたにも拘わらず、男は助かり、極楽まで辿り着いたというのである。

 俄かには信じがたい話だが、悪人が助かるとは、それも選りによって、一番の悪党が助かるとは、事実なら、いよいよもって世も末、ついに仏法の力の及ばぬ末法の世となったのだろうか。

 「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明監督の映画がある。汚職事件の責任を取らされ自殺に追い込まれた父親の無念を晴らそうと、三船敏郎扮する主人公は戸籍を偽って、親の仇である土地開発公団副総裁の秘書になり、さらに見込まれて、その娘婿となる。しかし、仇敵のふところ深くはいりこみ、巨悪に挑んだ主人公も、自分の父親を死に追いやった事件の真相を掴んだ途端、謎の事故死を遂げてしまう。

 結局、主人公の死によって真相はすべて闇に葬られるのだが、抹殺された主人公と、自分には優しい父親の、もう一つの顔を知った主人公の妻の悲劇をよそに、その父親を受話器の向こうで操っている、さらに大物の黒幕は逮捕される心配もなくなり、夜も高いびきで寝ておれるというのである。

 かかる世の不条理は今に始まったことでもないが、少子化現象に加え、七百兆円を超える財政赤字(2000年現在)を抱え、定年後の年金は、老後の生活はと、不安の種が尽きぬ時代に、悪人はのうのうと生き長らえたうえ、極楽往生まで約束されているとは、とうとう、あの世までおかしくなってしまったのだろうか。

 悪人にはなれず、しかし、善人と呼ぶにもほど遠い、ただの小心者は、とうてい極楽へは行けぬようだが、善人だろうと悪人だろうと、頼みとする蜘蛛の糸が切れては、やっぱり、地獄へ逆戻りするほかなかったろうに。それがなんと極楽へ行くことができたというのだから、これには、イギリスの詩人バイロンも呆れて、開いた口が塞がらず、ただ一言、「事実は小説よりも奇なり 」とつぶやくのが精一杯だったという。

 男は、そのときの信じられないような体験と幸運を現世の我々にも聞いて欲しかったのか、誰も呼んでいないのに、恐山の順番待ちの列に強引に割り込み、混線した電話のように、突如、霊媒に乗り移ってきたのである。唯我独尊、傍若無人、人の迷惑など顧みぬこの男、冥土でも、やはり周囲の鼻つまみ者だったようである。

恐山、口寄せの場

 死んだ身内と対面していたはずなのに、何の前触れもなく、途中で霊媒の様子が急変し、何事かと、ただ唖然とするその家族を尻目に、霊媒に乗り移った犍陀多は蜘蛛の糸を登ったときの一部始終を滔々と語り始めたのである。あのとき、いったい何がどうなって犍陀多は助かったのだろうか。まずはこの男の証言をとくと聞いてみることにしよう。東西!東西!

 「飛行機雲かUFOか、地獄に堕ちる人魂か、星は見えず月も見えず、日の光さえ届かぬ地獄の底に、降りた光の正体は、業火に映えて妖しげに、ゆらゆら光る蜘蛛の糸。地獄の上の遥かに高く、極楽浄土はあるという。釈迦の情か、仏の慈悲か、地獄に苦しむ俺たち罪人をあざ笑うかのように、かくも細いこの糸が。だが、藁(わら)にも縋りたい今の俺には、藁でも糸でも有難い。藁しべ長者 のように、もしかすれば、この蜘蛛の糸が俺に幸運をもたらしてくれるかも知れぬ。
 地獄の過酷な責め苦に、さすがの罪人どもも、もはや、逃げ出す気力さえなくしてしまったのか、虚ろな目でただ見ているだけの奴らを押しのけ、蜘蛛の糸を掴むと、一縷(いちる)の望みを繋ぎ、俺は登った。阿毘羅吽欠裟婆訶 (あびらうんけんそわか)。
 才なくても善人にはなれる。しかし、才なくては悪人にはなれぬ。悪人こそ極楽往生すべきだ。道は遥かに遠くとも、昔鳴らした裏稼業、縄登りなどならお手のもの。蜘蛛の糸さえ持ちこたえてくれるなら、極楽までもどこまでも必ず登り着いてみせる。自ら気力を奮い立たせると、手足に力がみなぎり、蜘蛛の糸を登る俺の脳裏には、現世でのこと、そして地獄に堕ちてからのことと、これまでの様々なことが次々と浮かんできた。
 親は知れず身寄りもなく、苦界に沈んだ身から生まれたか、吉原辺りに捨てられて、見様見真似で覚えた悪の道。餓鬼のころ、賽銭目当てに寺に忍び込むも、坊主に見つかり説教を聞く羽目となったが、あの世の地獄を恐れていてはこの世の地獄は渡られぬ。さんざん悪行の限りを尽くし、行き着く果ては鈴ヶ森 。」

 何がなんだか訳の分らないまま、突然、犍陀多の独壇場となった恐山の口寄せの場であったが、いつしかその迫真の演技に、皆、すっかり酔い痴れていた。

 男の回想場面は鈴ヶ森の刑場に通じる涙橋(現在の濱川橋)。丸橋忠弥、天一坊、そして、情熱の恋に殉じたお七などの罪人が、裸馬に乗せられ、江戸市中引き回しの末、これが見納めと、親兄弟や恋人などの親族縁者が密かに見送るなかを渡った橋である。しかし、犍陀多の場合、多くの野次馬はつめかけたものの、誰一人として、この男のために涙を流す者はいなかったという。

     犍陀多や浜の真砂は尽きるとも
     世に盗人の種は尽きまじ

 泥棒から掠め盗るとはさすが犍陀多、京の三条河原で、一族郎党もろとも釜茹での刑にされた天下の大泥棒の辞世の句を無断拝借したようだが、犍陀多が見得を切ると、口寄せの場からも、すかさず掛け声が飛んだ。
 「よう、大統領!」
 「日本一!」
 「澤瀉屋(おもだかや)!」
 観客と一体となって、ますます絶好調、千両役者の一人芝居はいよいよ佳境へ向かって進んでいった。

 「これが冥途のルビコン川 か、後には返せぬ三途の川の、一番深い瀬を渡らされた挙句、閻魔(えんま)の前に引き立てられて、もとより覚悟の地獄堕ち。だが、いざ、地獄に来てみれば、見ると聞くでは大違い。さながら、地獄変 の屏風図のように、いや、屏風図の絵にまつわる悲劇さながらに、業火に焼かれ、苦しみ、のた打ち回る罪人どもの、惨澹(さんたん)たる阿鼻叫喚(あびきょうかん)の光景を目のあたりにしたとき、俺は本物の地獄の恐ろしさを知った。
 それからというものは筆舌に尽くせぬ辛い苦しみの連続であったが、千載一遇、やっと、この地獄から這い上がれるときがきたのだ。天上を見上げては、日夜夢見ながらも、極悪人の俺には縁のない所かと、半ば諦めていた極楽浄土まで、もうあと一息、この蜘蛛の糸を登りきれば、夢がいよいよ現実となるはずだ。しかし、地獄からの脱出はそれほど甘くはなかった。
 急に下の地獄が騒がしくなった。一抹の不安が脳裏をよぎった。俺が登っても蜘蛛の糸が切れないと知れば、下の亡者どもが、いつまでもおとなしく手をこまねいて見ているはずがない。ここで奴らが登ってくれば、蜘蛛の糸は耐えられぬ。この蜘蛛の糸は最初に掴んだ俺のものだ。奴らに指一本触れさせてたまるか。だが、怒鳴りつけようと下を見降ろしたとき、俺が見たのは罪人どもの姿ではなかった。
 何ということだ、俺たち罪人をさんざん痛めつけてきた地獄の鬼が、片手には百貫目ほどもある鉄棒(かなぼう)を、もう一方の手には俺がぶら下がっている蜘蛛の糸の下端を持ち、凄まじい形相に残忍な笑いさえ浮かべながら、俺を見上げているではないか。この狂暴な地獄の番人が何をたくらんでいるか俺にはすぐに見当がついた。
 これまでの地獄の恐怖がよみがえった。もはや、極楽に行きたい一心の俺には悪党としての誇りも意地もなかった。『助けてくれ!』『見逃してくれ!』そんな頼みを聞いてくれるような相手でないことは百も承知だが、俺は叫ばずにはいられなかった。そして、本能的に必死で蜘蛛の糸を握りしめていた。
 どうせ切れる蜘蛛の糸にしがみついて何の役に立つ。だが、そのときは、そんなことを考えている余裕などなかった。次の瞬間、俺は直下型の地震にでも遭ったような激しい衝撃を覚えた。
 ややあって、我に返った俺は、自分がまだ蜘蛛の糸にぶら下がっていることに気づいた。下を見降ろすと、引きちぎれた糸の切れ端を持った鬼が地団駄踏んで何事かわめいていた。蜘蛛の糸は俺の上で切れずに、なぜか下で切れたのだ。ひとまず助かったようだ。『鬼さんこちら、その鉄棒もここまでは届くまい、ざまーみろ。』これ以上、誰にも邪魔されないことを確認すると、俺はまた蜘蛛の糸を登りはじめた。」

人間万事塞翁が馬

 たった一本の蜘蛛の糸を頼りに、果敢にも、極楽に挑むラ・マンチャの男の空中ショーを、しばし、あきれて眺めていた他の罪人たちも、まるでスパイダーマンのように蜘蛛の糸を登る犍陀多を見て、それなら我もと、蜘蛛の糸に殺到しかけたところに、血相を変え怒鳴りこんできたのが地獄の鬼。ただでさえ怖い鬼の、ただならぬ様子に、罪人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出したが、蜘蛛の糸を登る犍陀多を見つけた鬼が烈火の如く怒ったのも無理はない。

 行き掛けの駄賃にと、伸縮自在の鬼のパンツを盗んだところまではうまくいったようだが、すんでのところで鬼に見つかってしまい、蜘蛛の糸の下端を掴まれては、さしもの大泥棒ももはや為す術はあるまい。

 蓮池での退屈しのぎの午後の座興も今日はここまでかと、お釈迦様をはじめ、地獄を覗き込んでいた取り巻きも次々と席を立ちはじめたが、どうせ暇なら、もう少しご覧になればよいのに。本当の見ものはいよいよこれから、ほら、恐怖に慄(おのの)く犍陀多の叫び声が針の山に木霊(こだま)している。

 前代未聞の地獄での窃盗事件も盗まれたのはたったのパンツ一枚。しかし、その被害者が他ならぬ地獄の番人とあっては、この鬼の面目は丸つぶれ。さらに、ここで此奴を捕り逃がそうものなら、間抜けな鬼よと、末代までの笑い種(ぐさ)。

 地獄に堕ちて悔い改めるどころか、性懲りもなく盗みを働いておきながら、この期に及んで見逃してくれなどと、どの面(つら)下げてぬかすかと、鬼は情容赦なく蜘蛛の糸を激しく引っ張ったのである。だが、結果は見ての通り、地団駄踏み、益々怒り狂う鬼の気持もよくわかる。怒り心頭に発したそのさま、怒髪天を衝く如し。

 僅か一切れのパンを盗んだばかりに数奇な運命を辿ったジャン・バルジャン 。奉公先の主家の娘、お夏との許されぬ恋ゆえに、駆け落ちするも、金子横領の嫌疑で捕らえられ、刑死した手代の清十郎、それを知り、悲しみのあまり気がふれてしまうお夏。

 洋の東西を問わず、悲劇の主人公は枚挙(まいきょ)にいとまないが、このあと、地獄からの脱出に成功し、極楽まで行った犍陀多のような幸運な例もたまにはあるから、何事も最後まで希望を捨ててはならない。禍福はあざなえる縄のごとし。

お釈迦様でも知らぬ仏のお富さん

 昭和二十九年に春日八郎が歌い大ヒットした「お富さん」という演歌がある。「かけちゃいけない、他人の花に、情かけたが、身のさだめ」と、当時は、小さいこどもまでが、こどものくせにと、親に怒られながらも、演歌では定番の七七七五の都都逸(どどいつ)調のこの歌を、その意味も、怒られる理由も分からず、口すさんでいたものだが、これは「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」という演題の歌舞伎がそのもととなっている。

 「しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのをどう取り留めてか木更津からめぐる月日も三年越し、江戸の親には勘当うけ、・・・」の科白で知られる歌舞伎だが、実話をもとに創られたという、大店(おおだな)の若旦那の与三郎とお富との恋物語。しかし、お富は、やくざの親分に囲われている身、見つかれば、ただでは済まぬ命懸けの恋。案の定、与三郎はやくざの子分たちに切り刻まれ、お富は追い詰められ木更津の海に身を投げる。

 それから三年後、奇跡的に助かったものの、勘当されて家には戻れず、今で言うイケメンも、その恐ろしい顔の傷痕では、まともな仕事などなく、それならばと、逆にそれを売り物に、ゆすりたかりの常習者となってしまった与三郎は、ゆすりに行った先の玄冶店 (げんやだな)[現在の東京日本橋人形町付近]で、これまた死んだと思っていたお富と、偶然、再会する。

 演歌の「お富さん」は、二人の再会の場面を歌ったものだが、やくざの妾だったお富の運命も、そのお富に横恋慕した与三郎の運命も、そして、蜘蛛の糸を登った犍陀多の運命も、お釈迦様は予測できなかったようである。しかし、人の運命なるものは予測できないのが当たりまえ。

 最近、予言や占いの類のテレビ番組が目につくが、お釈迦様さえ分からない人の運命を、そんじょそこらの、どう見ても我々と変わらぬ普通の人間に予言できるはずなどなかろう。しかし、鬼が蜘蛛の糸を下から激しく引っ張れば、どこで切れるかは、お釈迦様でなくても、超能力者や占い師でなくても、高校程度の物理を学んでおれば予測できる。次にこの力学現象について思考実験を試みてみよう。

力学的カラクリ

 鬼の体重は犍陀多の体重や糸の限界強度に比べ充分大きいとしておこう。鬼が蜘蛛の糸をゆっくり引っ張る場合には、犍陀多の加速度はゼロであるから犍陀多に働く正味の力もゼロであり、犍陀多に働く三つの力、すなわち、犍陀多より上の部分の糸の張力 、下の部分の糸の張力 、犍陀多に働く重力の 、これら三つの力が釣り合っている。つまり、犍陀多より上部の糸の張力は、下部の張力よりも、犍陀多に働く重力の分だけ大きい。

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 体重の充分重い鬼が静力学の範囲で、引っ張る力を徐々に増していけば、上の糸の張力が先に糸の限界強度に達するので、糸は当然、上の部分で切れ、犍陀多に助かる道はない。しかし、鬼が下から蜘蛛の糸を激しく引っ張ると結果は異なる。犍陀多の慣性質量のため、今度は下の糸の張力が先に限界強度に達するので、蜘蛛の糸は犍陀多の下で切れる。


(図において、下向きを正の向きとすれば、運動方程式から、[math]{ T }_{ 2 }+{ M }{ g }-{ T }_{ 1 }=Ma[/math]、これから、[math]{ T }_{ 1 }-{ T }_{ 2 }=M\left( g-a \right)[/math]となる。糸を急激に引っ張り、加速度aが重力の加速度gより大きくなれば、T2がT1より大きくなる。)

 次に、鬼が蜘蛛の糸に与えた撃力を、蜘蛛の糸を伝わる波動として考えてみよう。パルス状の縦波として、蜘蛛の糸を下から上へと伝わった波動は、犍陀多のところに到達したとき、反射波と透過波に分かれる。このとき、犍陀多の質量が大きいほど、また、波の波長が短いほど、透過波の割合は小さくなる。犍陀多の質量は、地獄の鬼が引起こした短波長の波動に対しては防波堤の役目をして衝撃を反射し、蜘蛛の糸の、犍陀多より上の部分を保護していたことになる。

 鬼が糸の張力をゆっくり増したなら、長い波長の波を引起こしたことに相当するので、犍陀多の質量は防波堤の役目を果たせず、蜘蛛の糸は犍陀多の上で切れ、地獄からの脱出は失敗していたはずである。

 もし、あの時、鬼が怒鳴りこんでこなかったなら、次々と蜘蛛の糸を登ってくる罪人の体重のため、蜘蛛の糸はいつかその重さに耐えられなくなり、小説に描かれているように、犍陀多の上で切れたであろう。それは、りんごの皮むき競争で、長く垂れ下がったりんごの皮の一番上の部分は、皮の重さのすべてを支えなければならないので、そこが一番切れやすいのと同じことである。

慣性の法則

 「犍陀多落し」は定性的には達磨落しやテーブルクロス引きと同じく慣性の法則で説明できる。達磨落しや犍陀多落しでは、加える力の大きさより、むしろ、その変化する速さが重要となる。糸をどのくらい速く引っ張れば下で切れるかを定量的に求めようとすると、簡単な系であるにも拘わらず、少々難しい問題となろう。

 仰向けに寝た人間の腹の上に、重たい石を乗せ、その上に置かれた煉瓦をハンマーで打ち砕くという芸当がある。安易に真似するのは危険であるが、これも犍陀多落しと同じく慣性の法則である。石の下の人間が安全なのは、石と腹との接触面積が広いため力が分散され、また、煉瓦が割れることによりエネルギーが吸収されるせいでもあるが、腹の上に乗せた石の大きな慣性質量のため衝撃は下の人間にはそれほど伝わらないのである。慣性の法則は地震計や光学測定のための除振台にも応用されている。

 犍陀多落しも先のヨーヨー釣りも当然ニュートンの運動方程式によって説明できるが、数式に慣れていない相手に感覚的な説明を試みるとすれば、極めて曖昧で不正確な表現ながらも、「質量が大きいほど、物体は『速度の変化』を引き起こそうとする外からの力に対して、大きな『抵抗』を示す」という説明でよかろう。つまり、速度の変化に対する抵抗の目安が物体の質量ということになる。

 このことを分りやすくするために、一つの重りにつないだ同じ長さの二本の糸を、それぞれ左右の手に持ち、両手を水平にして引っ張り重りを支えてみよう。犍陀多落しを横向きにしたものである。

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 この状態から、糸を引っ張る強さを徐々に増していくときは、左右どちらの糸が切れるかは予測できない。その場合、重りに働いている張力は釣り合っているので、その大きさは左右で同じだからである。

 しかし、次に片方の手を固定して、もう一方の糸を急激に引くと、重りの質量のため、引いたほうの糸の張力が大きくなり、その糸のほうが切れる。この実験で、真ん中の重りは五円玉を五、六枚重ねたものでもよいが、片方の糸が切れると、その反対側に五円玉が飛んで危険なので、実験を試みるときは、周囲に充分注意しなければならない。

 一枚の煎餅を二人の子供が取り合うとき、先に力を入れた子供の分け前が少なくなるのもこれと同じ理屈だが、この実験から、「物体に『速度の変化』を引き起こすとき、物体の質量が大きいほど、また、『速度の変化』が急激なほど、変化の方向に大きな力を必要とする」ことが分かろう。これはニュートンの運動方程式の定性的な表現にほかならない。もちろん、ここでの『速度の変化』とは、速度の時間的な変化、つまり物体の加速度のことである。

羽化登仙

  鬼のパンツはいいパンツ 強いぞ 強いぞ
  百年穿いても破けない 強いぞ 強いぞ
  穿こう 穿こう 鬼のパンツ
  落ちりゃ地獄の釜のなか 恐いぞ 恐いぞ
  行こう 行こう 極楽へ
  登ろう 登ろう 蜘蛛の糸

 1880年にナポリの東、ヴェスヴィオ火山に登山列車が開通したとき、その宣伝歌としてフニクリ・フニクラが作られたが、この歌が大流行したため、その登山列車も大盛況だったという。それにあやかりたいという商魂からか、日本でもCM用のいろんな替え歌が作られているので、なじみのある曲であろう。

 そのフニクリ・フニクラからの、これまたよく知られた替え歌を、自ら作詞作曲したものだと臆面もなく強弁する犍陀多だが、最大の山場を脱した後は、心も軽く身も軽く、鼻唄混じりの天にも登る心地で蜘蛛の糸を登ったという。

 このとき仕事をしたのは犍陀多自身だろうか。犍陀多はその位置エネルギーを明らかに自分の体内から補給しているので、常識的に考えれば、仕事をしたのも犍陀多のように思えるが、力学では、仕事をするのは力である。

 それなら仕事をしたのは蜘蛛の糸に働く犍陀多の手足の力であろうか、それとも、犍陀多を吊るしている蜘蛛の糸の張力であろうか。仕事の定義から考えれば、重力場に対して仕事をし、犍陀多の位置エネルギーを増加させたのは蜘蛛の糸の張力である。

 しかし、犍陀多の手足が蜘蛛の糸を引っ張る力と、蜘蛛の糸の張力とは作用反作用の関係にある。手足の力が、重力よりも強い力で、蜘蛛の糸を引っ張ることにより、その反作用として蜘蛛の糸に現れる張力が、重力場に対して仕事をするのであり、犍陀多の手足にその力がなければ蜘蛛の糸の張力も仕事をすることはできない。つまり、直接仕事をしたのは、蜘蛛の糸の張力であり、手足の力は、張力をとおして、重力場に対して、仕事をしていると考えるべきであろう。

 「ジャックと豆の木」のジャックが豆の木を登る場合には、仕事をしてジャック自身の位置エネルギーを増やしたのはジャックの手足が豆の木から受ける摩擦力と考えるべきであろう。その摩擦力の大きさがジャックの体重を超えれば、ジャックは豆の木を登ることができる。

 車が道路上で急発進する場合も、車の運動エネルギーは車のエンジンから補給されているが、車の運動に直接仕事をするのは、車のタイヤが路面から受ける水平抗力、つまり、タイヤと路面との摩擦力である。

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 一般に摩擦は運動を妨げるものであり、厄介で不必要なものと思われがちであるが、摩擦には運動を伝える役割がある。この場合、車は、タイヤと路面との摩擦力によって、タイヤの回転運動から前向きの運動を得ているのである。強力なエンジンを積んだ車も氷の上では摩擦が小さくて走ることはできない。

舎利子

 「犍陀多落とし」の危機のあとは、何事もなく蜘蛛の糸を登り、無事極楽まで辿りついたという犍陀多だが、その間にも、本人も気づかぬまま、張力と重心運動の関係を調べるための実験台にされていたようである。

 お釈迦様と取り巻きが立ち去ったあとの静まりかえった蓮池に、お釈迦様の弟子の一人が戻ってきた。蜘蛛の糸を結わえた木の枝が、まだ揺れているのを見つけた彼は蜘蛛の糸をそっと手に取り、そのまま、瞑想に入ったのである。この弟子は何をしようとしているのだろうか。

 それについて述べるまえに簡単な力学の実験を試みてみよう。準備するものとしては体重計が一つあればよい。それも最近のデジタル式よりも、古い針式の体重計のほうがよかろう。体重計の上で屈んだ状態から立ち上がってみよう。

重力抗力加速度

 図のように、人の質量をM、重力の加速度をg、体重計から受ける抗力をR、人の重心の上向きの加速度をαとすれば、運動方程式から、R=M(g+α)となる。体重計の針の振れ、つまり、見かけの体重は、抗力に等しいから、加速度の変化から体重計の針の変化が分かる。さらに、重心の位置が時間的にどのような変化をするかが分かれば加速度が変化する様子がわかる。

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 被験者の重心の位置の時間的変化を時間で微分すれば、重心の移動する速度のグラフが得られ、さらにそれを、もう一度時間で微分すると、重心の加速度のグラフが得られる。これから、最初、被験者の体重の値を示していた針は、立ち上がり始めると一旦重いほうに振れ、次に軽いほうに振れ、立ち上がり終わるともとの値に戻るだろう。

 これを逆に辿ることもできる。体重計の針の動きから、加速度のグラフが得られると、それを、適当な初期条件のもと、時間で積分すれば速度のグラフとなり、それをさらに積分すれば、重心の位置グラフとなる。

 体重計の上で力を入れても、体重が変わるはずはないのに、その瞬間、針が振れる。「力を入れる」という表現は物理学的には正しくないが、これは体重が変化したのではなく、力を入れようとして、体を硬直させるさい、重心が動き、そこに僅かな加速度が生じたためと考えられる。
犍陀多が蜘蛛の糸を登るときの糸の張力は体重計の場合の抗力と同じになる。犍陀多が蜘蛛の糸を手足でぐいと引っ張り、自分の重心を持ち上げるごとに、犍陀多は体重計の上で立ち上がるような運動を繰り返しながら蜘蛛の糸を登っているに違いない。

 昔の医者が高貴な身分の患者を、その体に直接触れずに診察するのに、離れた所から糸脈で診るように、蜘蛛の糸を手に取り瞑想する弟子には、糸を通して伝わってくる感触から、一人の罪人が極楽に通じる深い蓮池のなかを登ってくる様子が文字通り手に取るように見えたという。

 その弟子は、人類が到達した最高の智慧の一つであり、現在では、あらゆる科学にとって不可欠な、微分積分学を習得しようと修行していたようである。お釈迦様にも凄い弟子がいたものだが、それもそのはず、この弟子こそ、お釈迦様の十大弟子のひとりで、智慧第一の弟子と呼ばれる、舎利子、シャーリプトラであったという。さすが噂にたがわぬ師をも凌ぐ知恵者である。

必然と偶然

 しかし、知恵なら、この男も負けてはいまい。持って生まれた才覚に、誰にも負けない知恵があるのだから、犍陀多も、悪の道にさえ走らなかったなら、真っ当な道に進んでいたならばと、返すがえすも残念で惜しい男である。

 さて、捜査当局によれば、犍陀多の証言を検証するため、例のパンツ盗難事件を再捜査した結果、巧妙に仕組まれた計画的犯行の疑いが浮上してきたという。

 以前から、午後の定刻になると、決まって極楽から蜘蛛の糸が垂れてくるのを知った犍陀多は、罪人を監視する役目の鬼を利用した脱獄方法を思いつき、綿密に計画を練り、その策略に地獄の鬼がまんまと嵌ったというのである。

 ピサの大聖堂の天井から吊り下がったシャンデリアの揺れるのを見て、振り子の等時性を発見したガリレイや、りんごが落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したニュートンのように、この男も、極楽から垂れてきた蜘蛛の糸を見た途端、慣性の法則に加え、鬼や罪人の心理と行動パターンを巧みに利用した脱獄の手口を思いついたのだろうか。

 それが事実なら、この男、教育らしい教育も受けず、現場からたたき上げた、恐るべき洞察力の持ち主ということになるが、はたして事前の計画通りに、そうそう、事がうまく運ぶだろうか。

 悪知恵にたけた犍陀多が犯人とはいえ、計画的犯行との見方には無理がある。確かに、パンツが盗まれたことを知れば、鬼は激怒し、鬼が怒鳴り込んでくれば、罪人は逃げ出し、鬼が蜘蛛の糸を激しく引っ張れば、糸は必然的に犍陀多の下で切れるであろう。しかし、あのとき、鬼がパンツを盗まれたことに気付かなければ、また、気付いても、怒鳴り込んで来るのが、早すぎても遅すぎても、結果は大きく異なっていたと思われる。物事は必然と偶然の連鎖によって進行するものである。

風吹けば桶屋が儲かる

 数人のグループにおいて、不用意な言動が間接的に伝わり、友人や恋人との信頼関係がいっぺんに損なわれ、それを修復するのに、大変な苦労をすることがある。それは人間関係が複雑系だからである。複雑系とは三つ以上の要素、多くて5つ、6つ程度の要素が互いにある関係をもって存在する系であり、そこでは、ささいなことが予期せぬ重大な結果をもたらすことがある。 生態系もいくつかの種が互いに天敵、捕食被捕食、共生などの関係を保ちながら共存している複雑系であり、人間関係ほどではなくても、その振る舞いを予測するのは難しい。

 昔、ハブの被害に悩まされた奄美大島にマングースが輸入されたことがある。ハブと天敵関係のマングースにハブ退治をさせようとしたのである。その結果、ハブの被害は減ったが、そのためにネズミが増え、甚大な穀物被害を招いてしまったという。

 現在の環境問題も、その多くは地球という複雑系のなかでの人間活動に起因している。その場合、直接的な因果関係なら予測は容易だが、めぐりめぐっての間接的な影響となると事前の予測は難しくなる。例えば、フロンガスそのものは無害であり、その使用と健康被害には直接的な関係はないが、フロンガスが大気中に放出されると、オゾン層が破壊され、地上に到達する太陽からの紫外線が増え、人は皮膚がんの危険にさらされることになる。

 また、化石燃料の使用も、大気中の二酸化炭素の濃度が増え、温暖化を介して、気候変動や地球の海面上昇という結果をもたらすと考えられている。また、一方ではそれに対して異論を唱える人々もいる。いずれにしても、気候変動の予測が難しいのは、対象となる地球が複雑系だからであろう。

 一癖も二癖もある犍陀多をはじめ、業を背負った罪人達と、彼らを監視する役目の鬼とからなる地獄なら、立派な複雑系である。お釈迦様が誰を助けるつもりだったかは知らぬが、犍陀多ではなかったことは確かであろう。しかし、屋根職人ではなく桶屋を儲けさせた一陣の突風のように、お釈迦様が戯れに垂らした一本の蜘蛛の糸が、豈(あに)計らんや、誰もが、一番、助かってほしくないと願っていた男を助けてしまったというのが真相のようである。

 極楽では、この招かざる客に、右往左往、上を下への大騒ぎであったようだが、沙羅双樹の花の色 と複雑系は、お釈迦様にも思い通りにはコントロールできないもののようである。

帰ってきた犍陀多

 さすがにエルビス・プレスリークラスの大物スターともなれば、死んでもなかなか成仏させてもらえず、未だにその辺りをさ迷っているようだが、大方の予想に反し、脱獄に成功し、極楽まで登り着いた犍陀多は、その後どうやって現世に戻ってきたのだろうか。

 消息筋の伝えるところによれば、犍陀多は生前から、唯一、その思想に傾倒し、心の師と仰いでいた人物に極楽で出会ったという。犍陀多はその親鸞聖人(しんらんしょうにん)にすぐさま帰依し、その許で更生の日々を送ることになったのである。しかし、極楽での生活はこの男の性分に合わなかったらしく、社会復帰の許しがでると、犍陀多はさっさと下界に降りてしまい、そして、久しぶりの現世には思わぬ運命が彼を待ち受けていたようである。

 ゴルゴダの丘で処刑され、三日目にして復活したキリストに比べ、鈴ヶ森で処刑された犍陀多の場合、方々で手間取っていたものだから、その間に現世の時計の針は随分と回転し、浦島太郎のように、犍陀多の目に映る何もかもが、昔とはすっかりさま変わり、時、あたかもIT時代の夜明けも近い二十世紀の世紀末。

 親鸞聖人のもとで木魚を磨きながら、少しは己の心も磨いたのか、この男も幾らかましな人間に生まれ変わったらしい。キリストなみに復活をなしえたからには、今度は真人間になって、世のため人のためにと、働き口を探していたところ、それなら是が非でも我が社へと、あるゲームソフトの会社に三顧の礼で迎えられたという。

 就職氷河期と言われた時代に破格の待遇での採用のようだが、恐山での、大向こうをうならせたあの渋い演技力を買われてか、仕事の内容はコンピューターゲームのなかで大泥棒の役を演じること。よりによってと思いながらも、これも前世からの因縁かと、思い直して引き受けたが、餅は餅屋、さすがにこれは当たり役。

 それなら、このソフトで不況の世に経済効果を巻き起こし、世直しを図らんと、犍陀多は天職としてこの仕事に打ちこむ気になったという。かくして、そのゲームソフト、この業界では空前のヒット商品となり、社会現象にまでなったのである。芸は身を助く。

 久しぶりに現世に舞い戻ってきて、ゲームの世界で大ブレークした犍陀多だが、やはり、この世が一番住み心地は良いと語っている。極楽というところ、確かに受験戦争もリストラ地獄もなく、傍目には羨ましい限りだが、あまり長居すると、これほど退屈な所はないらしい。そこでの唯一の楽しみといえば、蓮の葉の間から蜘蛛の糸を垂らして釣りをすることぐらい。それも垂らした糸の先は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の棲むところ、これまでまともなものが釣れたためしはないという。
 「天国よいとこ、一度はおいで、酒は美味いし、ネーチャンは綺麗し… 」などと、歌われていたのは疾うの昔の話。今は現世の煽りをまともに受けて、天国も、より一層の高齢化社会。美人薄命とは言うものの、今どき、妙齢の女性がそうそう天国に来るはずがない。

 酒はともかく、てんで期待外れの所であったと、犍陀多はあるテレビ局の独占取材に応じて語ったという。古き良き時代が去り、住みにくくなっていくのはいずこの世界も同じなのだろうか。

 いずれ売れ行きが落ちればリストラされる運命と知ってか知らずか、今日もピコピコと四角いディスプレの中、平成の義賊気取りでヤラレ役の泥棒の親分を演じる犍陀多だが、景気の方は相変わらず横這い状態。しかし、理科離れとともに若者の純文学離れが進む時代にもかかわらず、犍陀多の知名度は国の財政赤字とともにうなぎのぼり。

 天下の大泥棒はと問えば、一昔前までなら、石川五右衛門という答が確実に返ってきたものだが、今や、芥川龍之介の名も、「蜘蛛の糸」も知らずとも、真っ先に、「ドラクエのカンダタ」と答える若者が増えているらしい。

善と悪

 復活した犍陀多を密着取材したテープが2000年のミレニアムに合わせて放映されると聞いていたのに、未だに放映されないのは、やはりそのテープは「没」となったのだろうか。当のテレビ局に問い合わせたところ、事情があって放映するのが遅れているという。しかし、取りやめたのではないので、誠に申し訳ないが、今しばらくお待ち願いたいとのことであった。

 番組のヤラセや捏造がこれだけ横行しては、真面目な企画までが疑惑の目で見られ、迷惑しているようだが、犍陀多の件も、放映を巡って局内では喧々諤々(けんけんがくがく)、議論は白熱し、結論は二転三転したという。

 「本当に更生したのか怪しいものだが、一時的に改心したとしても、もとはと言えば大泥棒ではないか。そんな男の、口から出任せのいい加減な作り話に公共の電波を使ってよいのか。」
 「これは聞き捨てならぬ暴言、何を根拠に犍陀多を千三 (せんみつ)呼ばわりするのか。確かにこの男の前世は名うての白波。花のお江戸の八百八町を隈なく荒らし回り、当時の瓦版を連日賑わせた神出鬼没の盗賊。しかし、良きにつけても悪しきにつけても、前世を持ち出して人をとやかく言うのは許し難い差別。病気など人の不幸につけいり、あなたの前世はどうだの、ご先祖の霊がこうだのと、不安を煽り立て、信仰と称して蟻地獄に誘い込んで喰いものにするカルト宗教と変わらぬではないか。
 多少誇張されてはいるが、今、犍陀多がドラクエで活躍しているのは紛れもない事実。やむをえずパンツ一枚盗みはしたが、地獄に堕ちた哀れな罪人の身から、一本の蜘蛛の糸を足がかりに一念発起し、あの世、この世に、バーチャルと、三つの世界を股にかけ、遂にはゲーム界の寵児へと登りつめた男の破天荒なサクセス・ストーリーではないか。珍しく、このご時世に、希望と勇気を与える、こんないい話を放映してどこが悪い。」

 大嘘つきの悪人だろうか、それとも、長引く不況と就職難で、目標と夢をなくした現代の若者の心に希望の灯をともさんと、ミレニアムを機に地獄から甦った二十一世紀の救世主だろうか。犍陀多に対する評価は真っ二つに分かれ、その後、議論の行方もますます混沌となったという。
 善き魂と悪しき魂との内なる葛藤を描いた草双紙の挿絵のように、人の魂にもジキルとハイドの二重性(duality)が存在しているのだろうか。

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(図:山東京伝作、北尾政美画「大極上請合売心学早染草」)

 シュレーディンガーの猫のように、犍陀多の魂も善魂と悪魂の二つの固有状態の重ね合わせで表され、その魂に僅かながらも質量があるなら、スーパーカミオカンデで発見されたニュートリノ振動のように、二つの波動のうなりによって、悪魂であった犍陀多の魂が善魂に変身したのだろうか。

 善と悪について、量子論までとび出しての、禅問答まがいの口角泡を飛ばす激論のすえ、放映する方向で検討されることになったが、テレビ局にとって何はともあれ視聴率。この種の企画で高視聴率を得るには信憑性とか善魂悪魂云々よりも演出と放映のタイミングが肝心。

 「キリスト以来、2000年ぶりに復活の快挙を成し遂げた男が語るあなたの知らない世界」とでも題して放映すれば、確かにミレニアム特別番組としてはうってつけであろう。しかし、ここで、問題になったのが最近の世相。

 保険金殺人、少年犯罪、カルト宗教、幼児虐待、無差別殺人、ネット自殺と、衝撃的な事件が相次ぐなか、突撃レポーターによるミレニアムスクープも、今、放映したのではインパクトの点でいまいち。結局、今回は放映を見送ることになったが、その取材テープは、次回のミレニアムに備えてDVDに変換され、テレビ局の金庫の中に大事に保管されることになったとさ。

(「エルビスと犍陀多は永遠に不滅ばい。」と語るロカビリーかぶれの元太陽族、今では、老人会茶飲みサークル「説話文学研究会」主宰者の話より) 蜘蛛の糸はなぜ切れたのか? 悪人正機説 - 完、いや、千年後の次回のミレニアムに続く? -

参考; 蜘蛛の糸のルーツ

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