反面教師の力学授業

 定年後の終活として、墓石代わりのホームページを造りを始め、それを日本物理学会誌に記事として紹介したところ、永久機関を創ったと称する人からは仲間と勘違いされ、会誌の読者からは賛成意見もあったが、多くの反対意見をいただいた。大それた独自の理論を展開したつもりはなく、旧来のニュートン力学の枠内で、抗力も仕事をすることができると主張しただけであり、それが物議をかもすとは、筆者にとって意外であり驚きであった。

 確かに、抗力は作用点が動かないのでエネルギーを供給できず、その抗力が仕事をすると聞けば、奇異に聞こえ、抵抗があろう。しかし、ニュートンの運動法則は抗力のする仕事を否定してはいない。むしろ、運動法則に則り、抗力のする仕事を考えれば、日常の力学現象におけるエネルギーのやり取りが、いかなる物理法則とも矛盾することなく、ごく自然に説明できる。

 例えば、日常ではないが、テレビで見る宇宙ステーションのなかでの飛行士の運動を考えてみよう。宇宙ステーション内は局所慣性系であるから、飛行士が、自らの筋力を使っていくら頑張って手足を動かしても、また体をねじっても、外力が働かなければ、運動の第一法則によって、彼の重心は静止したままか、等速度運動をするだけである。飛行士にとって内力である筋力は自らの変形運動に仕事をすることができるが、自らの並進運動(重心運動)に仕事をすることはできない。

 飛行士が宇宙ステーションの中を自由に移動するには、彼はステーションから受ける抗力を利用するほかない。飛行士がステーションの壁を押せば、運動の第三法則によって飛行士は壁から反作用力である抗力を受ける。このとき、壁からの抗力は飛行士の運動に二つの作用を及ぼす。その一つは抗力が腕を伸ばすという飛行士の変形運動に文字通り抗い、その運動を妨げることであり、もう一つは、同じ抗力が飛行士に外力として働き、その並進運動に仕事をすることである。それは、壁からの抗力が飛行士の変形運動に負の仕事をし、同時に並進運動に正の仕事をすることを意味する。つまり、壁からの抗力が並進運動に仕事をするためのエネルギーは、宇宙ステーションからではなく、飛行士の変形運動から供給されている。

 高校物理教科書や広辞苑に記述されている仕事の定義も抗力の仕事を否定してはいない。高校教科書に定義されている仕事(仕事A)は、外力が物体の並進運動に対する仕事であり、運動の第二法則に基づいた定義である。それに対し、力と作用点の積として理化学辞典に定義されている仕事(仕事B)は、外力が系にした仕事であり、その仕事の分だけの力学的エネルギーが系外から系内に入ることを意味する。つまり、仕事Bはエネルギー保存則に基づいた仕事の定義である。仕事Aと仕事Bとを混同してはならない。

 宇宙飛行士問題のように、動力源が系内に存在する場合には、系外から系内への力学的エネルギーの流入は存在しないので仕事Bは存在せず、代わりに系内の動力源がする仕事を考えなければならない。系内の動力源とは飛行士の筋力だが、それが仕事をすることができるのは系の変形運動に対してである。このとき、抗力は、前述したように系の変形運動に負の仕事をすると同時に並進運動に正の仕事をしている。抗力を受けなければ、飛行士は変形運動をするだけで、そのエネルギーも熱エネルギーになって散逸するほかない。

 飛行士の並進運動は運動量とエネルギーの二つの保存量を持つ。前者はベクトル後者はスカラーだが、抗力を含めた外力が一切働かなければ、どちらも変化しないが、そのどちらか、または両方が変化するとき、飛行士はステーションから抗力を受けなければならない。運動量は宇宙船と飛行士の間でのやり取りによって変化するが、エネルギーは、抗力が飛行士の並進運動と変形運動に正と負の仕事を同時にすることによって、変形運動のエネルギーが並進運動のエネルギーに変化することができる。

 そう説明すれば、抗力のする仕事を誰にも納得してもらえると思い、今度は日本物理教育学会に投稿した。しかし、何度投稿しても物理教育学会の編集委員会の返事は同じである。「高校教科書の仕事の記述は、初心者のために厳密さを犠牲にして易しく記述されているので、それをもって抗力が仕事をすると考えてはならない。教科書に物体と書かれているが、物体一般に対する仕事ではなく、質点に限定した場合の仕事である。運動方程式を重心座標で積分した量は、仕事に似ているが、真の仕事ではなく、見せかけの仕事、つまり、pseudoworkであり、それをエネルギーの勘定にいれてはならない。」

 高校物理で習う力学や大学初年次に習う初等力学は、教科書を素直に読めば理解できると思っていたが、「正統な」初等力学は、いくら教科書を読んでも分からない、物理のなかでも、とてつもなく難しい部類の学問だったようである。そうとは知らず、筆者は定年を迎えるまでの35年間、能天気にも、標準的な物理学を教えてきたつもりだったが、実は、正統な物理学から外れた異端の物理学を学生に吹き込んでいた、とんでもない反面教師だったようである。それなら、今後も反面教師であり続けたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました