芥川小説「蜘蛛の糸」のルーツ

 蜘蛛の糸の真相なるものをいくつか紹介したが、いずれも、知ったかぶりの憶測を、「蜘蛛の糸」の作者は嘆いているだろうか、それとも怒っているだろうか。急速な科学の進歩と目まぐるしい社会の変革のなかで、世の価値観が多様化した時代に、今なお、自己の作品が、物理学まで含めた、さまざまな角度から話題にされるなら、それは作家冥利というものではないだろうか。きっと、意外な展開に、作者の芥川先生も草葉の陰で苦笑しながら、大いに楽しんでくれていると勝手にそう思いたい。

 「蜘蛛の糸」は、仏教説話をもとにして、児童向けに書かれた短編小説だが、もととなった説話のほうは、古くから世界のいろんな所のいろんな人々が関わって成立してきたようである。次に、その説話が芥川龍之介の小説になるまでの過程を知ったかぶりついでに紹介しておこう。

CCI20130417_00013

 地獄に堕ちた強欲婆さんは、生前、一度だけ善い行いをしていた。少々腐ってはいたが、葱(ねぎ)を一本、他人に恵んだことである。神様は地獄の婆さんのために、一本の葱を差し出し、それを掴んだ婆さんが、同じように葱を掴もうと群がってくる地獄の仲間に向かって怒鳴ると葱は切れた。「一本の葱」と題し、ドストエフスキー最後の長編小説「カラマーゾフの兄弟」に登場している民話であるが、同様な話は、十九世紀の末にアメリカ在住の作家で哲学者でもあり、東洋思想を西洋に紹介したドイツ人、ポール・ケーラスによって書かれたKarmaという小説のなかに仏教説話として登場している 。


             CCI20130417_00017 

 「Karma」は、これを絶賛したトルストイによってロシア語に翻訳され、その後、独仏語にも訳されているが、日本語には、禅をはじめ東洋思想を欧米に紹介した鈴木大拙によって「因果の小車」として翻訳されている 。鈴木大拙は、若い頃、アメリカに渡り、ポール・ケーラスの出版社に助手として勤めていたので、原作者の彼とも親交があったのである。

 ポール・ケーラスの小説「Karma」を要約すると、それまで仕えていた宝石商の主人に濡れ衣を着せられた男が、復讐のため、盗賊の首魁となって宝石商から財宝を奪うのだが、仲間との争いで瀕死の重傷を負い慈悲深い僧に助けられる。死を前にして、前非を悔い、往生の道を尋ねる男に、僧は「The Spider-web」という説話を話して聞かせ、我執我欲の妄念を捨てれば往生できると説く。

 男は奪った財宝の隠し場所を教え、僧に看取られながら安らかに息を引き取る。その一部始終を僧から聞き、財宝が戻った宝石商は男を手厚く葬り、その墓を建てるという内容である。
僧が男に話した説話のなかで、お釈迦様に蜘蛛の糸を垂らしてもらったものの、我欲を捨て切れず、地獄から抜け出せなかった罪人の名が「Kandata」である。芥川龍之介はその説話をもとに、少年少女向けの童話として、「蜘蛛の糸」を書いたと言われている。

 地球温暖化や環境汚染など、現在、進行している環境破壊も、すべて、我々自身の所業が招いた結果であり、我々は、今、辛うじて蜘蛛の糸にぶら下がっている状態ではないだろうか。このままでは、再び脱出することのできない深い奈落の底へと向かって堕ちていくことになろう。個人も会社も、そして国家も、今こそ、我利、我執、我欲の妄念を捨て、この状況から抜け出す方策を真剣に考えるときである。

 古くインドを起源とし、現代にも通じる仏教説話は、インターネットのない時代にも、遥かな時空のなかに張られた蜘蛛の巣のように、いろんな地方の民話と影響を及ぼし合いながら、有名無名の多くの人々が関わって出来上がってきたようである。ロシア版、アメリカ版、そして日本版と受け継がれ、その過程のなかで、人間の内面を鋭く描いた文学作品へと昇華したようだが、今度はこれまでと、幾分、趣を変えて、物理教育の観点から「蜘蛛の糸」を紡ぎ直してみた。

 芥川龍之介の「朱儒の言葉」にも影響を与えているというアメリカの風刺作家アンブローズ・ビアスによれば、悪人(Malefactor)とは人類を進歩させていく最も重要な要因(factor)だそうである(悪魔の辞典) 。それなら犍陀多ほどの人材、簡単に、地獄に落とすのも、極楽に成仏させるのも、もったいない。 

 学生の学力低下がますます深刻化するなか、犍陀多には、まだまだ現世をさ迷ってもらい、テレビゲームだけでなく、力学における落下運動の実験台として、また、広く物理教育の教材として、今後も活躍してもらいたいものである。西方浄土の一番近くにありながら、切支丹弾圧、原爆投下と、受難の歴史の地より、長崎版「蜘蛛の糸」を、教育が混迷する時代に届けたい。

CCI20130417_00011

              2000年8月17日 西日本新聞

コメント

タイトルとURLをコピーしました