1.はじめに
芥川龍之介の短編小説「蜘蛛の糸」の主人公カンダタが蜘蛛の糸を登るとき、カンダタの重心運動に仕事をしたのはカンダタの筋力か、それとも蜘蛛の糸の張力かで論争となり、双方譲らず、こう着状態が続いている。これを打開するには、力学の原点に立ち返り、虚心坦懐に仕事の定義から考え直す必要があろう。
2.物理的事実と物理用語の定義
物理学においても、用語の定義は約束事ではあるが、物理的事実に反する勝手な用語の定義は許されない。そこで、仕事を定義する前に、力とエネルギーについて、まず、次の二つの命題が物理的に「真」であることを確認して頂きたい。
命題A:系(または物体)に、系外からの力(束縛力を含む外力)が働き、系の重心(質量中心)が、力の向きに微小距離だけ移動したとき、系の重心運動のエネルギーは、力の大きさと重心の移動距離との積に等しい分だけ増加する。
命題B:系に外力が働き、力の作用点が力の向きに微小距離だけ移動したとき、系のエネルギーは、力の大きさと作用点の移動距離との積に等しい分だけ増加する。
命題AもBも疑いようのない物理的な事実であるので、二つの命題から二つの仕事をそれぞれ次のように定義しよう。
仕事A:外力が重心運動にする仕事=力の大きさ×重心の移動距離
仕事B:外力が系にする仕事=力の大きさ×作用点の移動距離
定義された二つの仕事は、どちらも物理的な事実に則した仕事であるが、Bruce Arne Sherwoodによって1983年に発表された論文Pseudowork and real work[American Journal of Physics 51, 597 (1983)]では、車の発進において、車の重心運動になされた仕事が、道路からの摩擦力と車の重心の移動距離との積に等しくなることを認めていながら、それは、真の仕事ではなく、仕事に似て仕事ではないpseudoworkだとし、仕事をしたのは車のエンジンだとしている。しかし、エンジンの力は内力であり、内力は重心運動に直接には仕事をしない。さらに、外力が束縛力か否かに拘わらず、命題Aは、仕事を定義する以前の物理的事実である。
通常の場合には、仕事A<仕事Bとなるので、仕事Aは仕事Bの一部であり、仕事Bが0なら仕事Aも0だと考えてしまい、また、仕事Aが0の場合でも仕事Bは0とは限らないので、本当の仕事の定義は仕事Bだと考えがちだが、玩具のヨーヨーの場合には、必ずしも仕事A<仕事Bとはならず、不等号の向きが逆向きになる場合もある。また、外力が束縛力で、かつ、重心が動く場合、仕事Bは0にも関わらず、仕事Aは重心運動にエネルギーを与えている。系が質点の場合、あるいは回転のない剛体の場合は二つの仕事は一致するが、一般には二つの仕事は異なる仕事であり、両者を取り違えると混乱が生じる。
3.質点系の力学
この問題の争点は、系内にエネルギー源が存在し、系の重心が束縛力を受けて動いても、束縛力は一切仕事をしないと考えるか、それとも束縛力が重心運動にした仕事として、仕事Aを認めるか、その1点に絞られる。
質点系の力学は、重心運動に対して仕事をするのは内力ではなく外力であることを示している(芥川文学「蜘蛛の糸」を巡る力学論争」、より一般化した質点系の力学については越桐國雄:重心運動のエネルギーはどこからくるの?)。カンダタの重心運動のエネルギーも、カンダタの体内に蓄えられている化学的エネルギーから補給されているのは確かであるが、重心運動に仕事をしたのは蜘蛛の糸の張力である。
Pseudoworkの考えに拘泥し、仕事Aを真の仕事と認めず、重心運動に仕事をしたのは内力だとする筋力説は、質点系の力学に矛盾している。宇宙飛行士になったカンダタが宇宙ステーションのなかで、筋力によっていくら手足を動かしても、外力が働かない限り、重心運動のエネルギーは増えないことからも明らかであろう。
4.仕事Aの認知
仕事Aはこれまで仕事として定義されていなかったのだろうか。大学の教科書に、仕事の定義について次のように書かれている。『物体甲が物体乙に一定の力Fを及ぼして、その結果、物体乙が力Fと同じ方向に距離sだけ動いたとき、甲は W=Fsだけの、仕事を乙にしたという。人間(甲)が坂道を重い車(乙)を一定の力で押して登る場合、人間が押す力の大きさをF、車が動いた距離をsとすれば、人間は車にFsだけの仕事をしたことになる。力学では、力が作用したときの物体(乙)の運動が主な関心事で、力の源となる物体(甲)に言及しないことが多い。したがってWを「甲のした仕事」と呼ばずに「力Fがした仕事」と呼ぶのが一般的である』原 康夫著「物理学基礎」学術図書出版社1986年。(原文では、甲乙はABと記されているが、仕事ABとの混乱を避けるために、あえて古めかしい甲乙に書き換えさせてもらった)
他の教科書や広辞苑もこれと似たような定義であり、移動距離を重心の移動距離とも作用点の移動距離とも明記していないが、重心の移動距離と考える方が自然である。
一方、理化学辞典で定義されている仕事は仕事Bであるが、仕事Aも仕事Bも、どちらも物理的事実に合致した仕事の定義である。今回の問題は、30数年前にアメリカで起きた「仕事の取り違え事件」に端を発している。仕事Bのみが唯一、仕事だと考え、仕事Aを適用すべきところを、仕事Bを適用してしまったために、論理的なねじれが生じ、仕事AにPseudoworkという不可解な名を付けざるえなかったようである。
取り違え事件によって、30年以上もの間、偽りの仕事と呼ばれ、不当な扱いをされてきた仕事Aを、重心運動にした真の仕事として、今一度改めて正式に認知すべきではないだろうか。
仕事Aを認知すれば、30数年もの間力学教育に立ちこめていたpseudoworkという得体の知れない霧は晴れる。仕事Aの認知によって新たに不都合なことは何も生じない。仕事Aの認知によって、束縛力が仕事をする場合も生じるが、むしろ、その方が利点がある。例えばブランコのような現象を説明する場合、ブランコの張力が仕事をすると考えれば、筋力が変形運動に仕事をして得られた力学的エネルギーがどのようにして重心運動のエネルギーに変わるかについて、理に適った分かり易い説明が可能になるからである。
5.おわりに
一旦、技が決まれば、どうもがいても外せず、しかも仕掛けたほうも痛いと言う、ザ・デストロイヤーの必殺技、足4の字固めのように、ねじれてもつれて絡んだ蜘蛛の糸問題も、どうやら解決の糸口が見えてきた。やっとこれで、ネット上に造った自分の墓の墓石に刻むべき文章が見つかったような気がする(墓造りのすすめ)。
くれぐれも、次の二つの仕事を取り違えることなかれ
重心運動にした仕事=力×重心の移動距離
系にした仕事=力×作用点の移動距離
今回の論争は、絶えず、筋力、張力、重心、作用点という物理用語に加え、「直虎」や「君の名は」などの流行語までが、頭の中を激しく駆け巡り、体力気力ともに使い果たした論争であった。
最後に、賛成反対の、どちらに組みしても互いに、苦痛を伴う厳しい激論になることが予想された論争に、敢えて体力と気力と時間を使って参加して頂いた方々に深く感謝したい。
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