情報化が進み、地球の裏側で起きていることまでが、リアルタイムのニュースとして茶の間に送られてくる現在では、もはや時代錯誤の感があるが、次の詩は、昔、教科書にもしばしば引用され、誰もが知っている詩であった。
山の彼方の空遠く幸い住むと人のいう
ああわれひとと尋めゆきて涙さしぐみかえりきぬ
山のあなたのなお遠く幸い住むと人の言う
カール・ブッセ作・上田敏訳
終戦の半年前に筑後平野の田園地帯に生まれた筆者にとつては、こどもの頃、遠くかすかに見える背振山系の向こうは、この詩のように、まったく未知の世界であった。
初めて県外に旅行したのは、小学校五年生の夏休みに、伯父に連れられ、佐世保の知人の家に行ったときであった。もちろん、ハウステンボスなどもない時代のことだが、山の向こうの知らない土地に旅行できるという、ただそれだけで胸を躍らせたものである。
当時の乗り合いバスには車掌さんが切符を切るために同乗していたが、その頃流行った「田舎のバス」そのままに、でこぼこ道を、バスに揺られながら、国鉄(現在のJR)の佐賀駅まで行った。田舎の道路はほとんどが舗装されていなくて、砂利を敷いただけのものであったので、車が通るうちに、道路がえぐられ、でこぼこ道になるのである。
最近の車は前輪駆動が多いが、昔はほとんどが後輪駆動であった。いずれにしろ、車は駆動輪のタイヤが地面から受ける摩擦力が推進力になるので、上り坂では摩擦力が大きくならなければならない。最初は平坦な道路でも、そこに僅かな窪みが生じると、そこに落ち込んだ車輪が抜け出るためには大きな摩擦力を必要とし、道路はますます深くえぐられる。手入れをせずに放置された道路がでこぼこになるのは物理学からすれば当然の結果なのである。
佐賀駅にバスが着くと、そこで長崎本線に乗り換えるのだが、それからもまた大変であった。トンネルの多い長崎本線では、乗客はいつも汽車の窓の開閉を繰り返さなければならない。暑いので窓を開けたまま、トンネルのなかに入ろうものなら、車両の中は真っ黒い煙でいっぱいになるからである。
片道だけでも一日がかりの、生まれて初めての長旅であったが、遠くかすかに見えていた山々が近くに迫ってくるとき、言いようのない感動を覚えたものである。
あれから六十年が過ぎ、世のなかは大きく変わり、携帯電話、パソコンが普及し、飽食の時代となった。当時のバス路線は廃止され、高速道路が通り、かつて、蒸気機関車が走った長崎本線には流線型の「白いかもめ」が、夏でも寒いくらいに冷房を効かせながら走っている。長崎博多間を僅か2時間足らず、60年前の田舎のバスの頃には考えられなかったスピードである。
科学技術のめざましい発展の成果であるが、人間の欲望もそれに負けず劣らず、限りがないようである。今以上にもっと早く着きたい、それには長崎にも新幹線をという話が持ち上がる。便利になることは結構なことだが、それと引き換えに我々は何かを失っていないだろうか。
世界の化石エネルギーの年間消費量をみると、エネルギー消費量は産業革命から増え始め、戦後は急激に増加し、その間、我々の生活も飛躍的に便利になった。しかし、我々が欲望の赴くままに、この消費量を伸ばしていくなら、その欲望曲線の先に何が我々を待ち受けているのだろうか。
化石エネルギーの使用量の増加によって、大気中の二酸化濃度も急激に増え、地球温暖化が危惧されている。しかし、文明の発展、維持にはエネルギーの使用は避けられそうもない。
ピラミッドの値段
総工費1250億円、工期5年、これは現代の科学技術を用いて、エジプトのクフ王のピラミッドを建造したときの見積もりである。建設会社の大林組による1978年の試算 だが、その後の物価上昇を考慮すると、今日では2000億円ほどになろう。それでは科学技術を用いず、現代人の人力のみによる手作りのピラミッドを建造しようとすれば、その場合にも、同じ金額でピラミッドが造れるだろうか。
2000億円という途方もない金額は庶民の我々には見当もつかないので、まず、最近まで大リーグで活躍した松井秀喜選手に登場してもらおう。彼が渡米する前、日本でプレーした最後の年、2005年の年俸は推定8億6千万円。2000億円あれば、47人の松井選手と5年間、契約できる計算になる。47人の松井秀喜のクローン人間を古代エジプトの労働者のように酷使すれば、その労働力だけで、5年後に巨大ピラミッドを完成させることができるだろうか。
高さ146m、総重量800万トンのクフ王のピラミッドには1個平均2・5トンの石灰岩が320万個使用されている。これを5年間で完成させるには、1日に2000個近くの石を岩山から切り出して、現場まで運び、それをさらに積み上げなければならない。ゴジラ松井の愛称で呼ばれ、人並み優れた体力の持ち主でも、僅か50人足らずの労働力では、本物のゴジラでも連れてこない限り、5年間での建設は絶対に不可能と思われる。
松井選手のような高額所得者を雇ったのでは、完成するまでにはとてつもない金額になり、どんな大企業でもたちまち破産しそうだが、現在の一般の労働者を雇い、その人力のみでピラミッドを建造した場合の見積もりを作成し、科学技術を用いた場合の大林組の見積もりと比較してみよう。
5世紀頃のギリシャの歴史家ヘロドトスの記述によれば、クフ王のピラミッドは紀元前2600年に建造され、当時、10万人の奴隷 が1年間のうち農閑期の3ヶ月だけ駆り出され、石を切り出す道をつくるのに10年、地下室をつくるのに10年、さらにピラミッドの石組みに20年、合計40年の歳月が費やされたという。世界の総人口がまだ1億人にも満たない頃の話である。
当時の1日の労働時間を12時間とすると、3ヶ月間の一人の労働時間は約1000時間になる。現在の労働者の年間労働時間が2000時間程度であるから、3ヶ月間の労働でも現在の労働者の半年分に相当する。つまり、ピラミッドを当時のように人力だけで造ろうとすれば、現在なら、10万人の労働者が20年間働かなくてはならないことになる。現在これだけの労働者を雇い、松井選手と同じ年俸はとても払えないが、労働者1人に払う年俸を400万円とすると、完成までの賃金だけでも、その総額は8兆円になる。科学技術を用いた場合の実に40倍である。
現在のように、安全第一の労働条件では、工期は大幅に遅れ、総工費もそれだけ高くなるものと考えられる。さらに事故の補償、退職金なども考えれば、手作りのピラミッドの値段は、この金額を遥かに上回ることになろう。それが科学技術を用いれば、企業としての儲けを加算しても2000億円という超格安の値段で、しかも短期間で完成することになる。
いくら40分の1の値段でもピラミッドの注文はありそうもないが、8万円のノートパソコンが2000円で売り出されれば、店頭には長蛇の列ができるだろう。手作りのピラミッドに比べ、科学技術で造れば、なぜ安上がりとなるのだろうか。古代文明と現代文明の共通点と相違点をエネルギーの観点から考えてみよう。
仕事の値段
総重量1トンの砂利を、人力だけで、ビルの屋上、地上100mの工事現場まで運び上げてもらいたい。必要なら、斜面も手押し車も、さらに梃子でも滑車でも道具なら何でも準備しよう。但し、動力源は君の筋力のみ。この重労働のアルバイトを君はいくらなら引き受けるか。100万円貰っても嫌だという学生がいた一方で、ある学生から、35万円、工期1ヶ月という答が返ってきた。
「一度に1トンを運び上げるのはとても無理ですから、10㎏ずつに分けて百回運ぶことにします。つまり、この仕事は10kgを1万mの高さまで運び上げることと同じことです。あるいは長崎の夜景の名所、稲佐山の標高は東京タワーの高さと同じ333mですから、10㎏の砂利を入れたリュックを背負って稲佐山に30回登ればよいことになります。」
なるほど、10㎏ずつに分けて運べば、重さは100分の1になるが、運び上げる高さは延べ100倍になる。仕事は力と距離の積であるから、一気に運ぼうが、分けて運ぼうが仕事量は変らない。また、梃子や輪軸や斜面を用いれば力は小さくて済むが、その分、移動距離は長くなり、結局、いかなる道具を用いても、仕事量を減らすことはできない。
「10㎏を担いで、稲佐山に一日一回登れば、一ヶ月で終了することになります。日当1万円として、30万円、それに毎日の弁当代と疲れを癒すためのビール代5万円を加算して貰って、しめて35万円でなら引き受けましょう。」
「かなり控えめな金額のようだが、本当に、そんなに安い金額で引き受けてくれるのかね?よし、それでは、手回しのウインチを準備してあげるから、君の要求額の7分の1の5万円で手を打とう。」
「え!?」
「砂利を担いで登るのでは、運び手の君の体重も一緒に運び上げなければならないことになる。つまり、君の体重が60㎏なら、70㎏を運ばなければならない。しかし、手回しのウインチを使って砂利だけ運び上げれば、仕事量は山登りの場合の7分の1で済むのだから、労賃も7分の1の5万円で済むはずだ。」
結局、その学生との雇用契約は成立しなかったが、手回しのウインチを使って、この仕事をすれば、どれだけの仕事量が必要だろうか。1㎏の物体に働く重力は9.8N、約10Nである。1トンの物体では10kNとなるから、全ての砂利を100mの高さまで運び上げるのに必要なエネルギーは約1000kNmである。NmはJであるから、この仕事量は1MJとなる。
この1MJの仕事をするのにガソリンエンジンを使えばどうなるか。ガソリンのエンタルピー、つまり、燃焼熱は1g当たり45kJ、ガソリンの比重は0.7、ガソリンエンジンの効率を三分の一とすると、1リットルのガソリンから、約10MJの仕事が取り出せる。1MJの仕事なら0.1リットルのガソリンで足り、ガソリン1リットルの値段は約150円程度だから、計算上は15円程度のガソリン代で済むことになる。軽油や重油を使うディーゼルエンジンなら、さらに安くなる。
人力による砂利運びのアルバイトを、動力エンジンを使用した場合と比較されたのでは、ビールどころか、渇いたのどをペットボトルのお茶で潤すことさえできない。さらに、動力エンジンを使用した場合には、短期間で仕事をやり終えることが出来る。1馬力は746ワットであるから、10馬力の動力エンジンを用いると、1MJの仕事なら、僅か2分少々の時間で完了することができる。
電気的エネルギーの量を表す実用的な単位にkWhがある。1kWhの電気量とは、例えば、朝シャン用の1kWのヘアドライヤーを1時間使用したときの電力量である。1kWhは3.6MJだから、これは1トンの物体を360mの高さまで運び上げる仕事量と同じとなる。その仕事量を人間の労働によって生産しようとすると大変だが、我々はその電気的エネルギーを僅か20数円程度で電力会社から買っているのである。
現代の科学技術を用いれば、ピラミッドを格安の値段で造れるのは、科学技術が、1MJ当りたかだか10円程度の、ただ同然の値段でエネルギーを使用しているからである。古代文明が当時の奴隷や農民の安い労働力によって支えられていたのに対し、現代文明は、奴隷に必要な最低の経費よりもさらに安い値段で、化石エネルギーを使用することによって成り立っている。
現在、日本人が1人当たり1日に使う化石エネルギーの量は400MJである。人生80年、つまり3万日、一生のうちでは、1200万MJという莫大な化石エネルギーをつかっていることになる。1200百万MJの化石エネルギーから取り出しうる仕事量はエンジンの効率を三分の一とすると、400万MJとなり、これは800万トンのクフ王のピラミッドを50mの高さ持ち上げる仕事量に相当する。あるいは60トン強の物体を地球の重力圏外まで運び去る仕事量である。
我々、現代人は古代エジプトのファラオも、秦の始皇帝も顔負けの多くの奴隷をかしずかせて生活していることになるが、そのことを忘れてはならないだろう。
運命の時計
教会の時計が夜の12時を告げたとき、魔法は解け、豪華な馬車も、輝くばかりのドレスも、もとのかぼちゃとかまどの煤で汚れた古着に戻る。ご存知、シンデレラ物語だが、現代には、核の時計と呼ばれる極めて恐ろしい運命の時計が存在している。
核の時計が夜の12時を告げたとき、世界は全面核戦争に突入し、人類が火と道具を使いはじめて以来、連綿として築き上げてきた現代の文化や文明も、それが魔法による一時の幻想であったかのように、一瞬にして廃墟と化してしまうというのである。
量子論の確率解釈でノーベル物理学賞を受賞したマックス・ボルンは優れた教育者でもあり、彼の門下からは原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーや、不確定性原理で知られるハイゼンベルグなど、多くの俊英が輩出したことでも有名である。しかし、晩年、彼は弟子達について次のように述懐している 。
「利巧で有能な生徒をもったのは満足なことであるが、彼らのcleverness がもう少し少なく、wisdomがもう少し多かったら、どんなによかったかと思う。かれらが私から学んだのが研究の方法だけだったとしたら、それは私の責任だと思う。いまやかれらのclevernessが、世界を絶望的な状況におちいらせている。」(Max Born:My life and my views)
Clevernessは頭の良さ、Wisdomは叡智とでも訳すべきであろう。世界が陥った絶望的な状況とは、人間が核兵器を開発し、広島、長崎の悲劇を招き、さらにその後の果てしない核開発競争によって、人類が絶滅の危機に立たされていることである。
1962年のキューバ危機では、核の時計は12時直前まで進み、まさに全面核戦争突入寸前であった。幸いにも世界は、絶体絶命の危機をいくどか乗り越え、冷戦終了後は、戦争は世界のあちこちで起きているものの、核の時計が話題にのぼることは少なくなった。しかし、ここに、もう一つ、人類の存在を脅かす別の運命の時計が時を刻み始めたようである。
ライト兄弟がキティホークの海岸で初飛行に成功してから、一世紀を経た今、航空機は日常化し、生活の中での時間と距離を大幅に短縮したように、科学の急速な進歩は、我々の生活様式を大きく変えてきた。
50年前に描かれ、2003年を誕生年とする「鉄腕アトム」は、当時からすれば近未来の漫画であったが、今、その近未来の時がやってきて、アイボやアシモなどのロボットが登場した。鉄腕アトムの作者の手塚治虫は、この漫画を書いた50年前、すでに、今日のIT時代の到来を見事に予測していたことになるが、今後も人類は限りない進歩を続けるのだろうか。手塚治虫が、今、再び、近未来の漫画を描くとしたら、今度はどんな50年後の世界を描くだろうか。
既に前世紀となった20世紀、人間はそのClevernessで科学技術を進歩させ、それが日本も含め一部の先進国には豊かで便利な今日の生活をもたらした。しかし、そのために人間は大量のエネルギーを消費し、自然界には存在しない1000万種もの化学物質を合成してきた。その結果、地球温暖化、環境ホルモンなど、予期せぬ複雑な環境問題が生じることとなった。このまま、人類がエネルギーを使い続け、さらに豊かさと便利さを追い求めるなら、もう一つの運命の時計が確実に12時を告げることになろう。
パンドラの箱には、唯一、希望が残ったとのことだが、我々が未来に残すのが希望か絶望かは、今、我々ひとり一人の叡智、Wisdomにかかっているのではないだろうか。20世紀は一部の人間の頭のよさ、Clevernessによってその欲望を満たしてきた。それに対して21世紀は人間の叡智、Wisdomが試される世紀のようである。
関連ページ: 「ツマデキタ」から60年
コメント
大変興味深く拝読しました。
小生もかつて講義で、成人男子の1日の摂取カロリー(約2500kcal)、基礎代謝量(約1300kcal)として、一日に8h労働とすると、出力がいくらのエンジンに相当するのかを計算して見せたことがあります。4人家族の平均的な世帯の一月の使用電力量が、300kWh程度とすると、家庭の消費エネルギーが電気エネルギーだけだとしても、成人男子の「奴隷」を何人使用してることになるかを計算させました。今日の栄耀栄華の暮らしが、エネルギーに支えられていることを教えたかったからです。今日の学生諸君は、人間の1日の摂取カロリー、油や石炭の単位発熱量を知らない者が多いし、理工系の学生でも、「熱力学の第2法則」を知らない者がたくさんいます(発電所の効率がせいぜい50%以下であることが説明できない)。我が身を振り返れば、大きな口はたたけないのですが・・・。
長崎大学の環境科学部で熱力学を講義していましたが、電力量の単位を尋ねると、「アンペアだったかな?、いやボルトだったかな?」その程度です。高校で物理非選択の学生が大半で、大学に入っても、基礎物理は、力学を半年間学習しただけですから無理もありません。教養部が廃止され、法人化後、物理に関しては、大学全体の物理教員数が激減し、学生の学力も大きく落ちたと思います。