力学教育を巡る現代の宗教裁判

 カンダタが蜘蛛の糸から受ける張力、豆の樹を登るジャックの手足が樹から受ける摩擦力、自転車や車の駆動輪が道路から受ける水平抗力など、作用点の動かない力、いわゆる束縛力が仕事をするなどと言えば、周囲からは冷たい視線を浴び、学会で発表したり、学会誌に投稿したりしようものなら、仕事は、力とその作用点の変位との内積であり、作用点の動かない束縛力が仕事をする筈がないではないか、物理を解かっているのかと言わんばかりである。異端の説を吹聴した罪で宗教裁判の被告席に立たされている心境だが、力学において、束縛力は本当に仕事をしないだろうか。

 物体の運動でも、その並進運動のみを扱う限り、質点の力学と同じであるが、大学初年次で習う初等力学では、剛体の並進運動と回転運動とが絡んだ問題が登場する。その場合も運動法則に基づき、運動方程式をつくれば、あとは数学を用いて、初期条件のもとに解くだけであり、運動に、運動方程式以外の制約が加わることはない。高校でも大学でも、古典力学の唯一の基礎理論はニュートン力学であり、運動法則を基本原理とすることに変わりはない。

 ニュートン力学の数学的な美しさを示すには、あれこれ説明するよりも、初等力学の具体的な問題を解いてみるのが手っ取り早い。次の図1と図2のような円柱のころがり運動についての問題を考えてみよう。

図1 中心に力を加えての転がり運動
図2 円柱の巻きつけた糸での転がり運動

 円柱の転がる速さをvとし、微小な時間間隔をdtとすると、図1では円柱に働いている外力は床から受ける抗力Fと外部の動力源から受ける力Tであるが、抗力Fは静止摩擦力であるから、Fの作用点の変位はない。それに対し、Tの作用点sはdtの間にvdtだけ変位する。一方、図2のように、円柱に巻き付けた糸を引っ張って転がす場合も、抗力Fの作用点の変位が0であることには変わりはないが、Tの作用点sの変位が今度は、図1の場合の2倍となり2vdtである。

 図1と図2の、どちらの問題も、運動方程式をつくると、並進運動と回転運動との連立方程式になり、数学を用いてそれを解くだけである。その際、我々は、FTの、力の作用点が動くか動かないか、また、どれだけ動くかを気にする必要はない。運動方程式は作用点の変位の有無や大小によって、力を区別していないからである。それでも、運動方程式に数学を適用して解きさえすれば、ニュートン力学は我々を正しい解へと導いてくれる。これこそニュートン力学の凄さであり美しさでもある。

 図1と図2のどちらの円柱も、運動量、角運動量、並進運動のエネルギー、回転運動のエネルギーを持つがそれらはすべて運動方程式を解くことによって得られる。図1の運動量はTFの力積、角運動量は抗力Fの力のモーメントの力積で与えられるが、並進および回転運動のエネルギーには、作用点が動かないにも関わらず抗力Fも寄与する。図1の場合、回転のエネルギーは、仕事Fvdtで与えられる。角運動量を持つがエネルギーを持たない回転は存在しない。抗力のする仕事を否定しては、図1の円柱はその回転運動のエネルギーをどのようにして獲得するかを説明できなくなる。抗力Fは、並進運動に対して、負の仕事、ーFvdtの仕事を同時にしている。図2では、並進運動にTFが仕事をし、その仕事量は(TF)vdtであり、また、右回りの回転運動にはTFが仕事をし、その仕事量は(TF)vdtである。vdtは作用点の変位ではなく、重心の変位である。転がり運動を二つの運動に分解したとき、一つの運動になされる仕事は、力と円柱の重心の変位の積である。二つの仕事の和をとれば抗力の仕事は消え、その値はTとその作用点の変位との積になり、力学ではエネルギー保存則も最初から運動方程式に取り込まれていることを示している。

 図1と図2は剛体に力が働き、重心が動けば、力の作用点が動いても動かなくても、力は剛体の並進運動に仕事をし、また回転運動に対しては、力が働き剛体が回転すれば、力の作用点が動いても動かなくても、力は回転運動に仕事をすることを示している。ニュートン力学では、力の作用線を間違えてはならないが、力の作用点の変位は関係ない。

 以上から、力学における仕事は、作用点の変位とは無関係に定義されなければならないことがわかる。岩波書店の広辞苑、ブルタニカ世界百科事典、高校物理の教科書では、物体に力が働き、物体が動いたときの仕事を、力と物体の変位との内積として定義している。これは物体を質点に限定したときの仕事の定義ではなく、また、作用点の考えが難しいから初心者向けに易しく記述しているのではない。定義する意義は議論が混乱することを避けるために他の用語と明確に区別するためである。教科書の仕事の定義は質点を含めた物体一般に対する、力学での仕事の厳密な定義である。力学では必要な情報はすべて運動方程式に詰め込まれている。運動方程式を解く過程を考えれば、力学における仕事をどう定義すべきかは自ずから明らかでああろう。力学の仕事についてまだ疑問があれば、ぜひ、図1と図2の問題を、上記の手順で数学を用いて解いてみられることをお勧めしたい。

 図1と図2は動力源が系外に存在する場合であったが、人が自転車に乗って道路を走る場合、動力源は系内に存在するが、人と自転車からなる系の並進運動に仕事をする力は、自転車の後輪のタイヤが道路から進行方向に受ける水平抗力以外存在しない。動力源は後輪の回転運動に仕事をするが、抗力が後輪の回転運動に負の仕事をするとともに、系の重心運動に仕事をすることによって、系の並進運動はエネルギーを得ている。自転車の場合も、円柱の運動と同じく、仕事は力の作用点の変位の有無に関係しない。カンダタやジャックの場合も上向きに働く力は束縛力以外に存在しない。束縛力は彼らの変形運動に負の仕事をすると同時に、重力場の中での彼らの重心運動に正の仕事をしていると考えるべきである。ただし、彼らの全体運動に力学的エネルギーを供給したのは彼らの筋力であることに変わりはない。

 しかし、約40年前に発表された論文:Pseudowork and real work[Am.J.Phys.51(7),597-602,1983]によれば、抗力はその作用点が動かないので、仕事をしないという。質点の力学ばかりを扱っていると、うっかり納得したくなるが、抗力のする仕事を排除しては力学の一般的な問題は解けない。抗力のする仕事の重要性を理解するには、力学に対するより深い理解が必要であり、質点の力学だけでなく、少なくとも回転を伴う剛体の力学までは理解しておく必要があろう。抗力が仕事をしてもエネルギー保存則には反しない。抗力が仕事をするときは、必ず二つの運動に正と負の仕事を同時にしているからである。力学での仕事は運動主体の仕事でなければならない。Pseudowork論文は、力学での仕事を、エネルギー主体の熱力学での仕事と取り違えている。

 力学における仕事は力の作用点の変位は関係ないのに対し、熱力学では、系全体の並進運動や回転運動のエネルギーは考えず、内部エネルギーの増減に寄与する仕事だけしか考えないので、その仕事は、力学での仕事とは異なり、力と作用点の変位との内積でなければならない。岩波書店の理化学辞典に定義されている仕事は熱力学における仕事である。力学を運動方程式や数学に頼らずに説明することは大切なことであるが、力学に熱力学の仕事を誤用して、抗力のする仕事を否定するのは本末転倒であり、既に300年以上昔に、ニュートンの著書「自然哲学の数学的諸原理」によって確立されているニュートン力学を否定するに等しい。

 コペルニクス説を支持し、天動説に反対したジョルダーノ・ブルーノは宗教裁判によって火炙りの刑に処せられたが、Pseudowork論文の登場は、自然のあるべき姿が宗教裁判で決められていた中世の暗黒時代に、力学教育を、タイムスリップさせたようである。科学も間違うことはあるが、宗教と異なるのは、科学は試行錯誤を繰り返しながらも、ああでもない、こうでもないと、自由な議論のなかで、淘汰されることにある。

 熱力学の仕事を唯一無二の仕事だとし、力学理論に仕事のようで仕事でないPseudoworkなる仕事が存在するという都市伝説まがいの学説が、力学での仕事の概念を捻じ曲げたまま、今日まで40年もの長きに亘って、正しいと信じられてきたとは驚きだが、それは、大多数の物理関係者が先入観や固定観念に囚われ、作用点の変位がなければ仕事をすることはできないと錯覚し、Pseudoworkの考えを無批判に受け入れ、この40年間、仕事の問題に対し思考停止に陥っているためではないだろうか。そうであればもはや科学ではなく、宗教であろう。Pseudowork信仰に惑わされ、抗力の仕事を否定し続けるなら、我々物理教育関係者は、❛論語読みの論語知らず❜のそしりを受けよう。即刻改めるべきである。

 筆者は新しい力学理論の構築などの、大それたことを提唱しているのではない。また、エネルギー保存則を否定して、永久機関が存在すると主張しているのではない。過去40年の間に、力学教育が誤った学説によって変貌を強いられ、ニュートン力学から逸脱している現状を本来の力学教育に戻すことを提案しているだけである。しかし、この問題は高校教科書の仕事の定義を書き換えるだけでは済まない、いや、書き換えてはならない。それを理化学辞典と同じに書き換えれば教科書からニュートン力学が消えてしまう。火炙りの刑は御免蒙りたいが、ニュートン力学に基づいた力学の議論が物理関係者の間に定着するまでは、抗力のする仕事を主張する異端者であり続けたい。

 

 

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