妖怪に牛耳られた力学教育

 ろくろ首も、行燈の油を舐める化け猫も、妖怪は物理とは一切無縁な存在だと思っていたが、何と日本の物理教育は、40年前、アメリカ産の「妖怪」を受け入れた! それも諸手を挙げての歓迎ぶりだったようである。長い間、物理関係者を悩まし続けてきた力学のパラドックスが、妖怪のする仕事、いわゆる「擬の仕事」によって解決できるかのように思えたからだが、固定観念に囚われることなく、抗力が仕事をすることを認めれば、仕事に関するパラドックスは、もはやパラドックスではなくなり、妖怪も擬の仕事も必要でなくなる。しかし、「妖怪」を受け入れた結果、今、日本の力学教育が未曽有の混乱に陥っていることに物理学会も物理教育学会も気づいていないようである。抗力が仕事をしても不都合なことは何も起こらないのに、未だに、次のような信じ難いことが・・・? 

抗力が仕事をすると言えば?

虫唾が走るのか、蕁麻疹がでるのか、物理関係者の大多数に嫌な顔をされる。そして、抗力は、その作用点が動かないので仕事をする筈はないではないか、抗力が仕事をすれば、エネルギー保存則に反するではないかと。あげくに、高校の物理を分っているのか!

と言わんばかりである。非難や反論は、むしろ有難いことだが、それ以後、何を言っても、聞く耳持たぬと相手にされない。抗力はエネルギーを生み出さないので、抗力のする仕事に反対したくなる気持ちも半分だけ理解できるが、ここは先入観を排して固定観念に囚われず、冷静になって愚か者の話を聞いて頂きたい。

 ニュートンの運動法則は、力の作用点が動くか動かないかで力を区別していない。物体に力が働いたとき、力が物体の運動に仕事をするか、しないかは、そのとき力の作用点が動くか動かないかではなく、力を受けた物体が動くか動かないかで決まる。

抗力の仕事とエネルギー保存則

 抗力が仕事をすれば、一見、エネルギー保存則に反するかのように思えるが、それは思い込みによる錯覚である。複合運動においては、抗力のする仕事を考えることによって、運動法則からエネルギー保存則を導くことができる。

 高校物理の力学では、そのほとんどが単一運動である。物体が回転運動をしながら、その重心が空中を放物線を描いて運動するとき、高校の力学では空気の抵抗は無視するので、重心運動と回転運動とは連動しない。その場合、二つの運動は、それぞれが独立した単一運動として扱うことができる。しかし、剛体の運動において、並進運動と重心のまわりの回転運動とが、抗力を介して連動する複合運動では、それぞれの運動にエネルギーが正しく配分されるには、抗力が二つの運動に同時にする正と負の仕事が必要になることを次に示そう。

図1 斜面をころがる円柱

 例えば、図1のように、傾斜角θの斜面を、質量M、半径α、中心軸の周りの慣性モーメントIの円柱が滑らずに転がるとき、斜面に垂直方向では、重力の成分と抗力の成分とが釣り合うので、その方向の運動は存在せず、斜面に沿って下方方向を、座標xの正方向に選ぶと、円柱は、重力のx成分と抗力のx成分Fとによって、xの正方向への並進運動と重心のまわりの回転運動とが連動した複合運動をする。二つの運動は、Fによって連動するので、Fは並進と回転の二つの運動の両方に現れ、その運動方程式は、次のような連立運動方程式で表される。

この場合、抗力のx成分であるFは斜面から受ける静止摩擦力であるから、その作用点は動かない。ここで、vは円柱の重心が斜面に沿ってx方向に動く速さ、ωは円柱の回転の角速度である。連立方程式をなす(1-1)および、(1-2)はそれぞれ、円柱の並進運動および回転運動に対する運動方程式である。vωには、円柱が滑らないという条件からvαωの関係がなければならないので、連立方程式の未知数は、vωのうちのどちらか一つとFの、二つであり、あとは運動方程式を初期条件のもとに数学を用いて解くだけであり、他のいかなる条件も付け加える必要はない。いや、むしろ付け加えてはならない。

 ただし、(1-1)と(1-2)から、いきなり、Fを消去すると、その時点でFに関する情報が失われ、未知数も一つだけになり、運動は単一運動に変わり、ころがり運動とは異なる別の運動になってしまう。ころがり運動であり続けるためには、Fの消去は最後にしなければならない。Fが0の場合は並進と回転の二つの運動は連動せず、それぞれが独立した単一運動になり、vωの関係もなくなる。

 運動量や角運動量、力学的エネルギーなど、運動に関する物理量はすべて運動方程式から導かれる。(1-1)式を時間で積分すれば、運動量Mv(=P)を求めることができ、(1-2)式を時間で積分すれば、回転の角運動量(=L)が求められる。並進運動のエネルギーEGも、回転のエネルギーERも、EGPの関係式、EGP/2M、および、ERLの関係式EL2/2Iを知っていれば求めることができるが、その公式を知らなくても、連立運動方程式(1-1)と(1-2)から正しく導くことができる。

それには、(1-1)の両辺に、重心の変位dx (=vdt)、(1-2)の両辺に、回転角の変化ⅾφ (=ωdt)をかけ、それぞれの右辺を計算すれば、

となる。(2-1)式の右辺は並進運動のエネルギーEGの増分であり、左辺は、並進運動に対して仕事をするのは重力だけでなく、Fも負の仕事をすることを示している。一方、(2-2)式の右辺は、回転運動のエネルギーERの増分であり、回転運動に対しては、Fのみが正の仕事をしていることを示している。

 Fが存在しなければ、回転のエネルギーは一定のままで、重力の仕事によるエネルギーは、すべて並進運動のエネルギーになり、摩擦のない斜面を物体が滑り落ちる運動と同じになる。しかし、抗力が存在すれば、重力の仕事によって得られたエネルギーが、抗力のする正と負の仕事によって、並進運動と回転運動とに再配分される。両式を加えるとFのする仕事は消え、

となる。(3)式の右辺は、円柱の全運動エネルギーE(=EG+ER)の増分であり、(3)式は力学的エネルギーの保存則である。抗力が仕事をしても、(2-1)と(2-2)で示されるように、抗力は、回転運動と並進運動とに、正と負の仕事を同時にするので、エネルギー保存則に反しない。抗力は一切仕事をしないとして、(2-1)と(2-2)を避けて、ころがり運動に対して(3)式を導くことができるとは思えない。抗力のする仕事を否定すると、転がり運動において二つの運動にエネルギーがどのような比で配分されるか、その内訳が分からなくなるだけでなく、(3)式を導くこともできなくなる。

 以上は、大学初年次に習う初等力学では、ありふれた問題であり、ニュートン力学を素直に適用すれば、容易に解くことができ、そこに妖怪の出る幕などない。それにもかかわらず、40年前に、どのような妖怪がどのようにして生まれ、それがどのようにして力学教育に潜入できたのだろうか。それは、妖怪が現れる過程と、(3)式がニュートン力学から導かれる過程とを比較すれば一目瞭然である。

妖怪の仕事!Pseudoworkとは?

 約40前にアメリカで発表された論文、Pseudowork and real work[Am.J.Phys.Vol.51(1983)](以下これをPs論文とよぶことにする)では、抗力は、その作用点が動かないので、仕事をしないと考え、(2-1)の左辺は抗力を含むので、仕事のようで仕事でない擬の仕事(Pseudowork)とした。抗力を含まない(3)の左辺を真の仕事(real work)として、力学には真の仕事だけでなく、エネルギーに関係してはならない擬の仕事が存在するとして議論を進めている。

 Ps論文は、本来一対をなす(2-1)と(2-2)を無理に引き剥がし、(2-1)式と(3)式とを、仕事とエネルギーの基本式としているが、(3)式は(2-1)と(2-2)の和であり、(3)式には、すでに(2-1)式が含まれている。そこに(2-1)をさらに付け加えれば、同じ式が重複して用いられていることになる。当然、(2-1)が一つだけ余り、それは仕事のようで仕事でない奇妙な擬の仕事と考えざるを得なくなっている。

 これをプラモデルの分解と組み立てに譬えれば、いくつかの動物のプラモデルを分解し、ばらばらになった部品から、分解する前の形を復元しようとして、間違えて同じ部品を二個使い、そのためギリシャ神話に登場する双頭の怪獣キマイラができたようなものである。

 Ps論文は、仕事とエネルギーの関係式を運動方程式から導くことをせず、ニュートン力学から導かれた結果だけを無理やり継ぎ接ぎして作ったため、学生のコピペレポートのように、個々の式は正しくても、一貫性に欠けたキマイラ理論になっている。

双頭の怪獣キマイラ:Wikipediaより

 抗力は仕事をするかしないか、それを判断するのはニュートン力学しかない。しかし、抗力は仕事をしないという間違った前提のもとに提唱されたPs論文を根拠に、抗力は仕事をしないと断定するのは、天動説を理由に地動説を否定するのと同じであり、時代錯誤の宗教裁判と言わざるをえない。

 400年前は地動説を主張したガリレイが教会に破門されたが、今度は、このままでは、日本物理教育学会はニュートン力学から破門される羽目になろう。罪状は、もう、お分かりだと思うが、ニュートン力学に反するPs論文に傾倒し、そのカラクリを見抜けず、そこから生まれた妖怪に幻惑され、その術中にはまり、抗力のする仕事を頑迷に否定し続け、40年に亘って初等力学を混乱させている罪である。しかし、今ならまだ間に合う、学会は即刻、キマイラ理論と決別すべきである。

仕事の定義

 定義は法則ではないが、仕事の定義も運動法則に基づく定義でなければ意味がない。(1-1)と(1-2)とからなる連立方程式から、(2-1)と(2-2)式を経由して、(3)で表されるエネルギー保存則を導く過程から、力学における仕事をどのように定義すべきかが分かる。

 (2-1)式の左辺は円柱の並進運動に対してなされた仕事であり、円柱に働く力と円柱の重心の変位との内積である。物体一般に働く力と物体の変位との内積として定義されたこの仕事を仕事Aと呼ぶことにしよう。一方、(2-2)式の左辺は円柱の回転運動になされた仕事であり、重心のまわりの力のモーメントと回転した角度との積である。この仕事を仕事A’と呼ぶことにしよう。さらに、(3)式の左辺は力とその作用点の変位との内積であるから、抗力のする仕事は含まれない。これを仕事Bと呼ぶことにしよう。

 高校物理教科書の力学の箇所、岩波書店の広辞苑、ブルタニカ世界百科事典には、仕事は仕事Aとして定義されている。剛体の力学では、並進と回転の両方の運動を考える場合は、仕事Aと仕事A’とが必要になるが、並進運動のみを考える場合は仕事Aだけでよい。一方、高校教科書でも熱力学の箇所や、岩波書店の理化学辞典では仕事Bである。さらに比較的最近発行された培風館の物理学辞典では、Ps論文に配慮したのか、仕事Aと仕事Bとが混同され冗長な文章になっている。

 仕事Aは物体や系の並進運動になされた仕事であるのに対し、仕事Bは物体や系全体になされた仕事であり、物体や系に外部から入ってきたエネルギーを表している。抗力は仕事Bをすることはできないが、仕事Aをすることができる。

 物体の運動を制限するのは運動法則と初期条件だけである。抗力は、仕事をすることができないという制限をさらにつけ加えれば、力学は二重の制限を加えられることになり、余計な足枷によって、力学は単一運動だけにしか適用できなくなる。また、抗力は仕事をしないという固定観念と辻褄を合わせようとすると、高校の教科書の仕事の定義を変更しなければならなくなる。

 実際、Ps論文以来、一部の物理関係者の間では、仕事Aは「質点に限定した仕事の定義」だとか、「初心者向けにやさしく定義された仕事」だとか、「紙面の分量が限られている教科書では厳密な仕事の定義を書き表せない」との意見もある。しかし、それでは、ニュートンの運動法則に代わって、力学教育の支配を目論むキマイラ理論にとっては思う壺であろう。仕事Aは、質点に限定された仕事でもなく、擬の仕事などでもなく、物体一般の並進運動に対して定義された仕事である。

 力学現象をいかに分かり易く説明するか、いろいろ模索することは大切なことだが、運動法則に反した説明は必ずどこかに綻びが生じて破綻する。ニュートン力学に、キマイラも座敷わらしも必要ない。抗力は仕事をしないという固定観念に囚われ、仕事に似て仕事でない擬の仕事という、妖怪のする仕事の存在を主張するPs論文は、力学に、都市伝説を持ち込み、40年間に亘って、力学を歪めている。

 高校の力学での運動は、質点の直線運動、円運動、放物運動ぐらいに限られ、質点であれば仕事Aでも仕事Bでも同じである。また物体の回転運動でも、それが単一運動であれば、仕事A’も仕事Bと同じになる。しかし、物体一般に対する複合運動の場合、(2-1)(2-2)に示されるように仕事Aも仕事A’も仕事Bにはならない。両者を加えた仕事Bだけでは、エネルギーがドンブリ勘定になり、エネルギーが複合運動にどう配分されるか、その内訳が分からない。力学での仕事を熱力学と同じく仕事Bだけにすると、力学は単一運動だけにしか適用できず、力学は高校で終わってしまい、大学の力学につながらない。

垂直抗力のする仕事

 円柱の転がり運動では、抗力のする正と負の仕事が数式で示すことができるが、懸垂で重心が持ち上がる運動を数式だけで説明するのは難しい。しかし、懸垂運動も人の変形運動と重心運動との複合運動と考え、鉄棒から受ける垂直抗力が二つの運動に正と負の仕事を同時にすると考えれば容易に説明できる。

図2 懸垂

 人が懸垂で重心を持ち上げるとき、人に働く外力は、鉄棒から受ける抗力Fと人の重心に働く重力Mgだけであるが、これを次のように考えると分かり易い。図2のように、大きさがFと同じで互いに上下に働く二つの力F1 F2を腕の付け根に付け加えても運動には影響しない。重心を上げるには、腕の筋力によって腕を曲げなくてはならないが、FF2とは、腕を曲げようとする変形運動を妨げる向きに働く。つまり、FF2とは変形運動に負の仕事をする。残りの力F1が重心運動に仕事をして重心を上に引き上げると考えればよい。F1Fとは大きさは同じであるから、FMgであれば、重心運動に運動量と運動エネルギーを生じさせることができる。抗力Fが仕事をしても、円柱の転がり運動の場合と同じく、抗力Fは正と負の仕事を同時にするので、エネルギー保存則に反することはない。

 車が道路を走る場合も車のエンジンは駆動輪の回転運動に仕事をするが、道路から受ける抗力がなければ駆動輪が回転するだけで車は進まない。駆動輪が道路から受ける抗力は駆動輪の回転運動に負の仕事をして同時に重心運動に正の仕事をすると考えるべきである。

 古池に跳び込む蛙も地面から受ける抗力は蛙の変形運動に負の仕事をするとともに重心運動に正の仕事をする。ジャックやカンダタが豆の木や蜘蛛の糸を登るとき、豆の木や蜘蛛の糸から受ける力が、彼らの変形運動に負の仕事をして、重心運動に正の仕事をする。

 人がブランコに乗ってブランコを振る場合も、人の変形運動と重心運動とが、ブランコの鎖の張力によって連動した複合運動である。この場合の張力も作用点の動かない束縛力であるが、張力のする正負同時一対の仕事によって簡単に説明できる。

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図3 ボタフメイロ模型

 スペインの教会にボタフメイロという数人がかりで綱を引っ張ったり緩めたりして振らせる巨大な振り子がある。図3のように、綱の張力は、引っ張るときは正の仕事をし、緩めるとき負の仕事をするが、両者の絶対値は正の仕事が大きいから、張力は全体的に正の仕事をし、重りは∞を描きながら振幅が大きくなる。

 ブランコの場合は、図4のように、人は、自らの重心が∞を描くようにブランコの上で屈伸運動をしている。ブランコを支えている鎖の張力は正味の仕事をすることはできないが、人の屈伸運動に負の仕事をすることによって人の重心運動に正の仕事をしてブランコの振れが増幅する(ブランコとボタフメイロ)。

 

4 ブランコ

 力学教育が、物理学的根拠のないキマイラ理論の呪縛から解放されたとき、抗力などの束縛力は仕事をしてはならぬという無用な足枷が外され、ニュートンの運動法則から自然に導かれる抗力が同時にする正と負一対の仕事によって、様々な力学現象が、飛躍的に簡単かつ明瞭に説明できることになろう。

摩擦による力学的エネルギーの移動

 正と負の仕事を同時にすることによって複合運動の一方の運動から他方の運動へとエネルギーが移動させることができるのは抗力だけではない。力学的エネルギーの散逸を伴う摩擦力も同様な役割をすることができる。

 例えば、地球の海底と海水の間で起こる潮汐摩擦によって失われる地球の自転エネルギーは全て熱になっているのではなく、その一部は月の公転のエネルギーになっている(秋の夜長の月物語)。

また、独楽は地面と独楽の芯との摩擦によって回転のエネルギーを減少させているが、その一部は独楽の重心を引き上げるために使われ、眠り独楽の状態が実現する(独楽の教訓)。

 

まとめ

 抗力や摩擦力に仕事をさせれば永久機関がつくれるという話ではない。疲労せずに全力疾走できるという話でもない。古典力学はニュートンの運動法則がすべてであり、抗力は仕事をするかしないかについて、新しい力学理論は必要ない。ごく当たり前のことを主張しているだけである。複合運動に対してニュートン力学から導かれる抗力のする正負同時一対の仕事を適用すれば、高校程度の物理の知識から、ほとんどの日常の力学現象は矛盾なく理解できる。問題の原因は固定観念に囚わられ、ニュートン力学を捻じ曲げて解釈したことにある。抗力の仕事を否定すれば、迷路に入り込み、堂々巡りの、にっちもさっちもならない状態に陥るのは当然である。今回の抗力と仕事の問題に関する限り、学会のこれまでの対応は、力学の基本原理である、ニュートンの運動法則を軽んじているように思えてならない。物理教育のプロ集団らしからぬ甘さが妖怪につけ入るスキを与えたのではないだろうか。

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