天動説と地動説と抗力のする仕事

 科学史は、見たままに、感じるままに、直感的に理解できる天動説よりも、当時の直感からは理解の難しいと思える地動説を選んだ。ニュートンの運動法則によつて地動説が完全に理解できるからである。ニュートン力学の成立から300年以上が経過した現在、地動説にも、ニュートン力学にも疑問を挟む余地はない。

 長い間、大学初年次の、理工系の物理教育に関わってきたが、古典力学の問題では、運動方程式をつくり、あとは数学を用いて運動方程式を解けば、正しい答え導かれ、何の問題も生じない。しかし、運動方程式に、数学をそのまま適用して解いてはならないと主張する論文が存在するを知ったとき、まさか!、それは、晴天の霹靂であった。(Pseudowork and real work:Am.J.Phys.51(7),July 1983)

 その論文の主張は次のとおりである。円柱の中心に外力Tを加えて水平面を転がすとき、円柱の転がり運動の運動方程式をつくることは簡単であり、円柱の転がり運動の運動方程式に現れる力は、Tと円柱が水平面から受ける後ろ向きに受ける水平抗力Fだが、Fも円柱の並進運動の運動量や、回転の角運動量には力積として寄与できるが、円柱は水平台の上を滑らずに転がるから、Fはその作用点動かないので、仕事に寄与できず、作用点が動くTだけが仕事に寄与できる力だという。

 しかし、運動方程式は対象となる現象の全ての物理量を説明できなければなたない。円柱の転がり運動でいえば、①円柱の運動量:Mv、②円柱の角運動量:、③円柱の並進運動のエネルギー:Mv2/2、④円柱の回転運動のエネルギー:2/2である。ただし、ここで、MvIωは、それぞれ、円柱の質量、円柱の並進速度、円柱の中心の周りの慣性モーメント、円柱の回転の角速度である。運動方程式が運動方程式であるためには、①~④の全てを運動方程式は説明できなければならない。しかし、抗力Fのする仕事を一切禁止すれば、①と②は説明できても、円柱の運動が③と④のエネルギーを持つことを説明できなくなる。①だけを持ち、③を持たない並進運動は存在しない。同様に②だけを持ち④を持たない回転運動も存在しない。③と④とがなぜそうなるかは暗記するほかないのだろうか。

 車や自転車が道路を走り、子供が公園のブランコで遊ぶという日常のありふれた現象に対し、光速に近い運動でない限り、古典力学は完全である。確かに、エネルギーを供給したのは、エンジンであり、自転車の乗り手の筋力であり、ブランコを漕ぐ子供の筋力である。だから、仕事をしたのはエンジンや筋力であるという、当たり前のことで済ませ、道路からの抗力やブランコの鎖の張力の果たす役割に踏み込まないなら物理教育の存在する意味はない。抗力は系にエネルギーを供給できないが、正と負の仕事を同時にすることによって、動力源の仕事によって得られたエネルギーを各運動に配分する役目をしている。

 ブランコの場合であれば、固定点からブランコを吊るしている鎖の張力はブランコの漕ぎ手の上下運動に負の仕事をすることによつて、その分、ブランコの揺れ運動に正の仕事をしている(ブランコとボタフメイロ)。抗力のする仕事はニュートン力学にとって必要不可欠な仕事である。熱力学の仕事だけが唯一の仕事として、抗力のする仕事を否定してはならない。

 日本の物理教育は、抗力の仕事に関する限り、40年前に、アメリカの物理学会に追従し、物理教育をニュートン以前の天動説にまで逆戻りさせ、科学史の時間をそこで停止させるという愚行を犯していないだろうか。大先生でもそうでなくても人は誰しも間違う。学会も間違う。間違った論文も出よう。しかし、ああでもないこうでもないと議論しながら科学は進歩する。運動方程式に頼らず、直感的な説明をすることは大切であるが、その直感がニュートンの運動法則に反しているなら、本末転倒である。

 「抗力は仕事をしない」というのは、一見、もっともらしいが、間違った先入観である。それから脱却し、ニュートンファーストを取り戻したとき、物理教育は正常な姿に戻り、停止した時間も一気に取り戻すことができよう。改めるに躊躇する必要はない。

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