力学論争における「バカの壁」

 解剖学者の養老孟司さんの著書であり、ベストセラーとなった「バカの壁」によれば、人間誰しも知りたくないことに対してはバカの壁を造るという。筆者が、数年前から物理学会および物理教育学会の両編集委員会相手に繰り広げている論争も、筆者と編集委員会の少なくともどちらかが、無意識のうちに自説に都合のいいようにバカの壁を巡らしているに違いない。

 これでもか、これでもかと投稿する筆者に、編集委員会から送られてくる掲載拒否の理由は次の2点に尽きる。①高校教科書に記述されている仕事の定義は物体一般に対する仕事ではなく、仕事の対象を質点に限定している。②物体の並進運動に対する運動方程式を重心座標で積分した量は仕事に似ているが真の仕事でなく、見せかけの仕事である。

 筆者から見れば、①も②も、本末転倒した支離滅裂な回答としか言いようがないが、編集委員会からすれば、真摯に答えたつもりであろう。しかし、仕事の定義は、それ自身は物理法則ではないが、物理法則に則っていなければならない。そして、定義は物事を他と明確に区別するためにある。高校物理教科書の仕事の定義を何度読み返しても、質点に限定した定義とは読み取れないが、定義に複数の解釈が可能なら、その定義は定義の意味をなさない。もし、質点に限定した仕事の定義であれば物体と書かずに質点と書くべきであろう。高校生にとって質点の概念が難しいとは思えない。高校教科書には質点とは何かについても、すでに記述されている。

 高校物理教科書には、仕事を物体に働く力と物体の変位との内積として定義している。国内国外を問わず、辞典類の多くも高校教科書の記述と同じであるが、確かに岩波書店の理化学辞典には、仕事を系に働く力と力の作用点の変位との内積として定義している。教科書等に定義された仕事を仕事A、理化学辞典に定義された仕事を仕事Bと呼ぶことにすれば、仕事Aは運動法則に則って定義された仕事であり、仕事Bはエネルギー保存則に則って定義された仕事である。

 仕事Aは力が物体の並進運動に対してした仕事であり、仕事Aがなされた分だけ並進運動の力学的エネルギーが増すことを意味する。一方、仕事Bは外力が系に対してした仕事であり、仕事Bがなされた分だけ、力学的エネルギーが系外から系内に入ることを意味する。両者は異なる仕事だが、どちらの仕事も必要な仕事であり、仕事Aが継子扱いされる理由はない。それにも関わらず、編集委員会が、国会答弁のような苦し紛れの主張を繰り返すのにはそれなりの理由がある。

 「バカの壁」の始まりは約40年前に、仕事Aは真の仕事ではないとする、いわゆるpseudowork論文がアメリカで発表されたことに遡る。その論文では、車が発進するとき、車に働く外力は道路から受ける水平抗力だけであるが、エネルギーはエンジンから供給され、道路が供給しているのではないとして抗力の仕事を否定している。力と重心の変位の積として定義されている仕事Aは、抗力も仕事をすることになるから、仕事Aは仕事に似て仕事でない見せかけの仕事だというのである。

 しかし、車の駆動輪のタイヤが道路から受ける水平抗力は駆動輪の回転運動に負の仕事をすると同時に、車の並進運動に正の仕事をする。つまり、抗力は、道路ではなく駆動輪の回転運動をエネルギー源として並進運動に仕事をしている。抗力が仕事をしてもいかなる物理法則にも反しない。抗力は仕事をしないとする先入観によってバカの壁が造られ、それを正当化するために新たなバカの壁が造られたようである。仕事Aはニュートンの運動法則から数学的に、ごく自然に導かれる仕事であり、それを否定する根拠はない。さらにpsedoworkの考えと辻褄を合わせるためには、高校教科書の仕事の記述には物体と明記されているにも関わらず、それを質点に対する仕事だと考えざるをえなくなる。バカの壁の連鎖である。

 物理学会誌(2016年2月号)に、カンダタが蜘蛛の糸を登るとき、仕事をしたのは蜘蛛の糸の張力だとする記事を発表したことが契機となって論争に発展し、それから、すでに5年が過ぎたが、これは異教徒間の宗教論争ではない、物理教育にたずさわる者どうしの論争である。どちらかがニュートン力学とは異なる新力学理論を構築するというなら話は別だが、ニュートンの運動法則を共通認識とする限り、時間をかけて議論すれば、話せばわかると信じたい。

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