今回、平戸高校から訪問授業の要請がありました。このホームページにも公開している漢詩の楓橋夜泊を引用してのやさしい物理とその応用について、物理を学んでいない高校生対象に話してほしいとのことでした。
通常なら日帰りで訪問するところですが、車は持っていても免許を持たず、しかも行く先は平戸のなかでも不便な場所、バスと列車を乗り継いで目的地まで遅れずに辿り着くことができるかどうか自信がありません。
そこで高い出費になるのを覚悟で、妻に運転手として同行してくれるよう頼んだところ、案の定、日帰り出張のはずが、観光を兼ねて、いえ、観光が主の、三泊4日での、田平から平戸と生月を、ガイド兼運転手付きで巡るという贅沢な旅行となりました。
10月31日の出発当日朝、ほぼ快晴、しかし、予期せぬ車のトラブル。最近、妻もしばらく車に乗っていなかったのでエンジンがかからない、車屋さんを呼んでバッテリー交換、結局、出発時刻は、予定を大幅に遅れて11時。もし、当日の出発だったら、午後からの授業に間に合わず、完全にアウトのところです。しかし、まだ二日前なので、今日のうちに平戸口のホテルに着けばよいのですから、慌てることはありません。
1.田平
まだ大学に在職していたとき、やはり、訪問授業で平戸の猶興館高校で「田舎のバスから60年」という話をしたことがあります。10年ほど前のことですから、そのときはまだ、「田舎のバスから50年」だったのですが、そのときとも、途中、田平を訪れていたので、田平は今回で二度目になります。
出発して、約2時間、車は田平に入ったようです。山の上には風力発電の風車が回り、窓から見た畑は稲刈りが済んだばかりのようでした。
前回の猶興館での授業の際は、たびら昆虫自然園を訪ねたので、今回は午前中に、まず田平天主堂を見学する予定でしたが、出発が遅れたので、時刻も既に1時を回り、まずは昼食をと、知人に教えてもらっていた「萬福」に向かいました。そこでは刺身がおかわり放題とのことですが、食欲も昔ほどではありません。萬福は次の機会にとっておくことにして、その手前の物産館に車を停めました。
平戸瀬戸物産館は田平と平戸島を繋ぐ平戸大橋のたもとにありました。
直売所甲子園!科学甲子園や俳句甲子園などがあるのは知っていましたが、いろんな甲子園があるものです。
平戸牛は日本一と書かれたのぼりに、ついつられ、結局、物産館隣りのレストランに入り、日本一の理由も分からぬまま平戸和牛丼を食べることにしました。
レストランから見た、田平と平戸島を結ぶ平戸大橋です。平戸大橋は赤い吊り橋でした。左が田平側、右が平戸側です。
物産館から車で南下すると、最初の目的地、田平天主堂に到着しました。
世界遺産候補の一つ、カトリック田平教会(田平天主堂)は平戸瀬戸の海を見下ろす丘の上にありました。煉瓦造りの教会で、見学するには事前連絡が必要です。天主堂の内部は見るだけで、原則的には撮影禁止ということなので、外の写真だけを撮りました。
天主堂正面に立つ聖母マリア像には驚きました。そんなバカなと、一瞬、我が目を疑ったほどです。 青春の日の憧れのマドンナが、当時の面影そのままに、半世紀以上の時を超えて突如現れたのかと思ったからです。
それでも、私には、聖母マリアが出現し、奇跡を起こして病気が治ったなどという、このての話は到底信じることはできません。マリア様が19世紀まで生きているはずはありません。
聖母マリアを信仰するルルドの少女の空想の世界には、いつもマリア様がいて、洞窟の岩さえもマリア様に見えたのでしょうか。 しかし、誰もが心を癒される気品溢れるマリア様のような女性が、現代にも存在するということなら、それは信じたいと思います。
いろいろと勝手な空想を巡らせながら、歩いていると、教会側面のステンドグラスが眼にはいりました。
ステンドグラスは、昼だと、外から見てもよく分かりませんが、処刑の場面でしょうか、人が縛られているように見えます。
田平天主堂は長崎の西坂の丘で処刑された26聖人殉教者に捧げて大正7年に建造されたとのことです。秀吉の命で捕えられた26人のキリスト教徒や宣教師は京都から長崎に護送され、今の西彼杵郡時津町の時津港に上陸しました。
時津港には、現在「日本二十六聖人上陸の地」という碑が造られていますが、彼らは、そこから、現在の206号線沿いの旧浦上街道を通って、JR長崎駅近くの西坂の丘に徒歩で向かったとのことです。
我が家の近くにも旧浦上街道の標識が作られていますが、当時その辺りは打坂峠と呼ばれ、浦上街道の難所だったようです。400年前、耳を削がれ、首から縄で後手に縛られたまま、26聖人はどんな思いで我が家のすぐ近くの道を刑場へと歩いたのでしょうか。そのなかには数え年でまだ12歳の少年もいたといいます。
2.生月
初日の今日の天気も明日には崩れる予報です。今日のうちに生月も観光しておこうと、田平天主堂を後にして平戸大橋を渡り、平戸を通り抜け、さらに生月大橋を渡り、隠れキリシタンの島、生月に入りました。
生月は南北に細長い島です。島の北に向かって車を走らせると、途中に塩俵の断崖がありました。何本もの岩の柱で造られた建造物のように見える断崖ですが、これも、自然界が長年かかって造り上げた芸術なのでしょう。ここから見るサンセットは絶景とのことですが、まだ、日没までには時間がありましたので、テントの中で売っていたブルーベリーアイスクリームを食べたあと、さらに北へと向かいました。
最北端にある大バエ灯台です。
灯台には展望台があり、そこまでは自由に登ることができます。
大バエ灯台から見た的山大島の風力発電所です。風車1基の発電能力は2000kwあるそうです。 一般家庭の契約容量を40Aとすると、フルに使用した場合、一世帯当たりの使用電力は40A×100Vだから、4kWとなります。つまり、風車1基で500世帯の電力をまかなえます。
生月島の北端から南下して、島の入り口近くにある島の館に到着しました。
夕日に長く伸びた私の影が、既に日没近くの時刻であることを示していますが、受付で尋ねると、5時閉館とのことでした。しかし、「私たち館員は5時以降もまだ残っていますので、ごゆっくりどうぞ。」と言ってもらいました。
クジラの骨です。江戸時代までは日本近海でも多くのクジラが捕れていたようです。とくに生月や唐津の呼子の捕鯨が有名ですが、江戸時代には生月出身の生月鯨佐衛門という巨漢力士もいたそうです。
草取り器です。碁盤の目状に並んだ水田の苗の間を押して転がしていました。
これもコメの取り入れに使われていた昔の懐かしい農機具です。
平成27年の今年は戦後70年、そして昭和90年でもあります。昭和ノスタルジーでしょうか、最近は古民家が静かなブームになっているようです。
古民家を改造したレストランや旅館にも、昔の生活を伺わせるカマドや農機具などの生活用品が展示されています。しかし、次のだけはレストランや旅館では、隅々探しても決して見ることはできないでしょう。
肥桶はその後バキュームカーにとって代わられ、トイレが水洗となった今では、そのバキュームカーもほとんど見かけなくなりました。
館員さんたちの帰宅を遅らせては悪いので5時少し過ぎには島の館を出ましたが、ここにはその他、隠れキリシタンの部屋などが展示されていました。写真撮影は照明が暗くてできませんでしたが、かくれキリシタンの祈りオラーショの音声が録音から流れていました。
さらに、今回は時間的に立ち寄れませんでしたが、生月にもいくつかの教会があり、またキリシタン弾圧の多くの悲劇の場所もありました。
3.平戸
旅行二日目となった11月1日の午前中は、車を平戸交通広場の駐車場に停めたまま、平戸市の中心部を歩きながらの観光です。心配していた天気もなんとか持ちそうです。
日蘭交易の拠点オランダ商館跡は平戸港に面する一帯にありました。
向こうに見える白い塀はオランダ塀です。商館内部を外から覗かれないように造られたそうです。
オランダ商館跡です
井戸のようです。
平戸商館倉庫という白い建物があり、オランダ商館の博物館になっていました。
そこに展示さている大砲ですが、大航海時代に艦載されていたのを復元したものです。
この建物のなかにも、オランダの鎧や食器など多数の展示物がありましたが、その多くに、写真のような東インド会社の商標が見られます。
平戸の街をあるいていると、平戸出身の作詞家藤原洸さんの記念碑がありました。「一杯のコーヒーから」や「別れのブルース」など多くの曲の作詞を手掛けていますが、NHKのクイズ番組「私の秘密」のレギュラー解答者でもありました。高橋圭三アナの「どーも、どーも、高橋圭三です。」とともに、藤原さんの鋭い質問が聞こえてきそうです。
1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの記念碑です。
ザビエル記念碑から山手のほうに長い長い按針坂を登ると、リーフデ号で大分の臼杵に漂着し、その後徳川家康に重用された三浦按針こと、ウィリアム・アダムスの墓がありました。
松浦資料博物館の中です。松浦藩の藩主が乗った駕篭でしょうか。
伊能忠敬が作った九州地図です。平戸島も生月島も正確に描かれています。
日本地図を初めて作った伊能忠敬は50歳で天文学を学び始め、55歳から測量にとりかかり、17年かかって日本全土の地図を完成させたそうです。現在に比べ、人の寿命がずーつと短かったことを考えると、ただ凄いの一語に尽きますが、その執念見習いたいものです。
女性の化粧道具のようです。
遊女を描いた屏風図です。
話が前後しますが、松浦資料博物館です。入口の門まで長い石段がありました。 按針坂といい、ここといい、平戸観光には体力が必要です。
松浦資料博物館のあとに訊ねた六角井戸です。
樹齢400年の大きな蘇鉄です。
大蘇鉄は日蘭交流400年の歴史を見てきたのでしょうか
平戸ザビエル記念教会の尖塔です。
ここにもルルドがありました。
奥の突き当たりに見えるのが平戸殉教者顕彰慰霊の碑です。
同じく教会内の聖サンフランシスコ・ザビエル記念像とその説明板です。
顕彰慰霊の碑の説明板です。
ザビエル記念教会から少し下に降りた所から撮った写真です。平戸のパンフレッドの多くに紹介されていますが、平戸を象徴する「寺院と教会の見える風景」です。
平戸の街並みです。ところどころに「Firand」という横文字が見受けられました。Finlandの間違いかと思っていたら、平戸のことをフィランドと呼んでいたそうです。
午前中は坂をかなり歩き回り少々くたびれたので、午後は車で鄭成功記念館を訪れました。鄭成功は中国福建省出身の父親と日本人の母親の間に生まれました。
鄭成功記念館に着いたので駐車する場所を探していたら、「車はそこ辺りに止めておいてもいいですよ。」という声がどこからか聞こえてきました。よく見るとそこは普通の民家の庭でした。久しぶりに田舎の素朴さに触れた気分です。
福松(鄭成功の幼名)と母親の像です。鄭成功は7歳まで平戸で育ったそうです。
記念館には、近くで発見された媽祖像が展示されてありました。媽祖は安全航海のための守り神ですが、長崎のランタン祭りでは毎年媽祖行列が行われます。
鄭成功は、台湾を支配していたオランダを追い払いました。当時の中国兵士の武具です。
数年前、台湾を旅行したとき、鄭成功の像がありましたが、ここ平戸にも記念館のほかに鄭成功にまつわるいくつかの史跡がありました。鄭成功は台湾の英雄であるとともに平戸の人々の誇りでもあるようです。
4.平戸城
11月2日、今日が肝心の平戸高校での訪問授業の日ですが、午後からなので午前中は平戸城を見学することにしました。
昨日の昼、松浦資料館から撮っておいた平戸城の遠景です。夜にはライトアップされた城がホテルから見えました。
平戸城駐車場から坂を登っていくと城門です。
平戸は吉田松陰ともゆかりのあるところのようです。
平戸城の天守閣です。
ここに展示されている皿にも東インド会社の商標が描かれています。
天守閣から見た平戸です。ザビエル記念教会が見えます。
これも天守閣から見た風景です。
別の角度から見た平戸城です。
城の敷地内から見た平戸の海です。
城内の巨木の根元には黄色いツワの花が咲いていました。
午後からは平戸高校での訪問授業です。昼食を早くすまし、平戸高校に向かいました。途中12時を告げる鐘がなりました。平戸高校は紐差にありましたが、以前、長崎大学の科学実験グループと紐差小学校を訪れたことを思いだしました。
平戸高校での授業終了後、紐差教会に立ち寄りました。ここも内部は撮影禁止です。「心のフィルムに写しておいて下さい。」と書いてありました。
紐差教会の敷地内です。
明日は佐世保の玉屋の催場を借りての長崎大学主催の科学イベントがあります。明日、早朝に長崎から実験機材を運んでくる一行に合流するため、今夜は佐世保のホテルに宿泊です。
翌11月3日の科学イベントの様子です。今回は昨年を上回る多くの参加者がありました。
訪問授業と出前実験の日程に合わせての旅行でしたが、多くの歴史を学んだ3泊4日の旅でもありました。
コメント
拝読致しました。素晴らしい内容のみならず、文章に、写真が程よく配されてとても分かりやすい構成です。実は、小生も約2年前、平戸・生月を、老妻と探訪しましたので、懐かしく拝見しました。ありがとうございました。
コメント有難うございます。九州物理教育グループにお誘いしながら、欠席ばかりで申し訳ありません。来年は参加できるようにしたいと思います。