自然界の対称性(改訂版)

 恋する乙女の花占いのように、自然界の神秘のベールを一枚々剥がしていくとき、自然界の法則は、あるときは対称に見え、またあるときは非対称に見える。それは、我々が常に自然界の一部分だけしか見ていないからである。

 2008年は四名ものノーベル賞の受賞者がでて、日本中が沸いたが、物理学賞と化学賞のメダルの裏には、科学の女神スキエンチアが自然の女神ナツーラのベールを取り除いている絵がデザインされている。

 自然の女神の片手が現われたとき、その姿は非対称だが、もう一方の手が発見されたとき、女神の姿は対称となろう。いくら脱がしても、やっぱり、ベールをまとった自然の女神の、究極の裸の姿は左右対称だろうか、それとも非対称だろうか。暫し淫らな妄想にお付き合い願いたい。

左と右

 日常会話において、何気なく用いられる右や左だが、右はどちらか、左はどちらかという問になら簡単に答えられても、右とは何か、左とは何かと聞かれたら何と答えればよいだろうか。「右は左の反対」では堂々巡りとなる。

 ヒダリの語源は「日の出」からきているらしいが、広辞苑で左の項目を引くと、「南を向いたとき東にあたる方」とある。朝起きて縁側に南を向いて立ったとき、朝日の昇ってくる方向が左である。つまり、辞書の定義では、左右を知るには南北の違いが分かっていなければならない。

 南と北の違いは簡単に分かる。正午まで待てば、太陽の仰角は最大となり、そのとき太陽が位置する方角が南だからである。しかし、正午に太陽がいつも南にくるのは、日本のように北回帰線以北のところに限られる。

 熱帯地方でも、南半球でも、世界中どこでも通じる「南」の定義はあるだろうか。南について広辞苑をみると、「日の出る方に向かって右の方向」と述べている。これなら極地以外の地球のどこででも南を定義することができよう。しかし、これでは、今度は右を定義する必要性がでてくる。

 左右を定義しようと思うと、南北を定義する必要であり、南北の定義には左右の定義を必要とし、結局、日の出の方向からは世界共通には左右を定義できないことになる。

 日の出の方向から南北を定義することは、地球の自転の向きから幾何学的に南北を定義することと同じである。宇宙から地球を見たとき、自転が左回転して見えるなら、見えている側が地球の北半球であり、右回転なら南半球である。自転の向きによつて南北を定義しようとすると、左右の定義に戻ってしまい、辞書の記述のように堂々巡りになるのは当然であろう。

 もし、地球の北半球に住む物理学者が、地球が自転していることも地球に南半球が存在していることも知らずに、北半球の力学現象のみを観測して、力学を創ったとしたら、その法則はどうなるだろうか。

 彼は地上で物を投げたとき、その運動は鉛直平面内に放物線を描くことを発見するだろう。しかし、より精密に観測すると、放物体は僅かだけ鉛直平面内から外れ、運動方向に対していつも右にずれることを発見するだろう。さらに、長い振り子を長時間振らせると、その振動面が上から見てゆっくりと右回転することも発見するだろう 。

 彼は、地上の物体の運動を支配している重力は、ほんの少し、左右の対称性が破れていると主張し、その非対称性によって左右を定義できると考えるだろう。つまり、右とは物を前方に投げたとき、僅かにその放物体が曲るほうと定義できるのである。

 その後に彼が南半球の存在を知り、そこでの力学現象が北半球といつも左右が逆になることを発見したとき、北半球でも南半球でも成り立つ統一的な力学法則を創るだろう。新しく創られた重力の法則は左右対称であり、力学法則から普遍的に左右を定義することはできないことに気づくだろう。

 地球上での力学現象が一見非対称に思えるのは、地球の自転によるコリオリの力のためであり、それから左右を定義することは地球の自転方向から幾何学的に定義することと同じであり、観測者のいる場所が、南北のどちらの半球に位置しているかということが、あらかじめ、分っている場合のみ、左右を定義できる。

マッハのショック

 左右の定義についての堂々巡りの議論から抜け出す術はあるだろうか。方位磁石のN極の指す方向が北であるから、磁石を用いれば、問題は一挙に解決するかのように思える。しかし、今度は磁針の二つの極のうち、どちらがN極かを、地球の南北や左右と無関係に決めなければならないという新たな問題が生じてくる。

 エルステッドの実験と呼ばれる有名な実験がある。下図のように、一本のまっすぐな導線に、電流が手前から前方に向かって流れるようにし、電流の流れている導線の上に磁針を置くと、磁針のN極は右を向くというものである。

エルステッドの実験

 物理学者であり、哲学者でもあるマッハは、子どものときにエルステッドの実験を見て、大変驚いたそうである。彼にはその実験で磁針のN極が右を知っているかのように思えたからである。つまり、右とはエルステッドの実験で磁針のN極が指す方ということになる。

 筆者も、中学校の理科の時間にエルステッドの実験を見たが、あとでマッハのショックの話を聞いたとき、マッハと違う意味でのショックを覚えた。 エルステッドの実験を見ても何の疑問も抱かなかった自分にショックを覚えたものだが、エルステッドの実験から本当に左右が定義できるのだろうか。

 エルステッドの実験を用いて左右を定義する場合にも磁針のどちらがN極かを我々が知っていなければならない。近くに磁石を引き付けるものが存在していないとき、北の方向を指すのが磁針のN極だが、南北が判らなければ、磁針のどちらがN極かも決めようがない。

 もし、地球の南北と無関係に磁石の磁極を決める方法があれば、そこが、宇宙の彼方であっても、エルステッドの実験によってN極の向くほうが右であるから、左右が定義できることになる。

 磁針を他の磁石に近づければ、同じ磁極は反発し合い、異なる磁極は引合うという磁石の性質から磁針のNSを決めることができる。しかし、それには基準となるもとの磁石のNSが決まっていなければならない。

 磁極の定義は地球磁場を基準としているので、地球の南北が分らなければ、磁針のNSも決めようがなく、まして、地球などその存在も知らない宇宙の彼方の住人にとってはエルステッドの実験からは左右も決まらないことになる。

 地球の南北を知らなくても、電磁石を基準にすれば、電流を流す向きからN極とS極の違いが判定できる。コイルの軸方向から見て、電流が左まわりに流れているなら、手前がN極であり、向う側がS極ということになる。しかし、この場合には左まわりと右まわりの違いを知っていなければならない。
結局、電磁気現象から左右を決めようとしても、やはり、堂々めぐりに陥り、電磁気学も力学と同様、その法則は左右対称ということになる。

 電磁気学には、よく知られた「フレミングの左手の法則」がある。電磁気学の法則が左右対称なら、電磁気学に、なぜ「左手」が登場するのだろうか。

 左手の法則を正しく適用するには、左手がどちらかを理解していなければならない。左右を間違えて右手を出してしまったらどうなるだろうか。この法則を適用するためには、磁力線の向きが分かっていなければならないが、それには磁石のどちらがN極であるかが分かっていなければならない。しかし、左右を間違えている実験者は、磁石のN極とS極も取り違えているはずである。彼は磁力線の向きを逆向きにして、右手を出して考えるので、電流に働く力の向きは正しい向きになる。

鏡になかの磁極

 電磁気学では左右を定義することと、磁石のNSを定義することは同じであるが、これは何を意味しているのだろうか。右利き用のグローブを鏡に写すと左手利き用になるが、磁極を鏡に写すと磁極も入れ替わる。

 例えば、円電流の作る磁極を鏡に写すと、図のように、鏡をどのように置いても、N極の鏡像はS極になり、S極はN極として映る。永久磁石も原子内の電流の流れや電子のスピンに起因しているから、やはり鏡に映せば磁極が入れ替わることにかわりはない。

鏡に映った磁極

 通常、永久磁石のN極は赤色に、S極は青色に塗られている。しかし、磁極の色は人工的に慣例として付けられたものであり、赤色に塗られたN極を鏡に映せば、その鏡像はもちろん赤色に映るが、鏡のなかのその極はN極ではなくS極なのである。

 エルステッドの実験を鏡に映してみよう。N極とS極は互いに鏡像の関係にあるので、エルステッドの実験は実際の現象と鏡の中の現象は区別がつかないことになる。

 繰り返すことになるが、エルステッドの実験を支配している電磁気学の法則は左右対称であり、当然、エルステッドの実験から左右を定義することはできないことが分かる。

鏡映と空間反転

 鏡に映った自分の姿は左右が逆になったように思えるが、実際には前後が逆転している。前後も左右も上下も逆にすることを空間反転とよぶ。

 三つの平面鏡を互いに直角に張り合わせた鏡に映すと空間反転した像が得られるが、一枚の平面鏡に映した鏡像を鏡に垂直な軸の周りにπだけ回転しても、空間反転した像が得られる。

 ベクトルを空間反転してみよう。たとえば速度を空間反転すると、逆向きになるので、負の符号がつく。位置ベクトルも運動量のベクトルも同様に向きが逆になるが、それらのベクトル積で表される角運動量のベクトルは空間反転しても変化しない。

 空間反転によって向きが逆向きになるベクトルを極性ベクトル、角運動量のように向きが変らないベクトルを軸性ベクトルまたは擬ベクトルと呼ぶ。

 例えば、円電流の磁気モーメントはS極からN極へ向かうベクトルで表される。これを鏡に映したあと、その鏡像を鏡面に垂直軸のまわりにπ回転すると、磁気モーメントのベクトルは変化しないことが分かる。電場はベクトルであるが、磁場や磁気モーメントは軸性ベクトルである。

 磁場中を運動する荷電粒子に働く力、つまり、ローレンツ力は、荷電粒子の速度と磁場とのベクトル積に電荷を掛けたものであるが、速度は極性ベクトル、磁場は軸性ベクトルであるから、ローレンツ力は、通常の力と同じく極性ベクトルになる。

 ローレンツ力から導かれる、フレミングの左手の法則に現れる三つのベクトルのうち、磁力線ベクトルが軸性ベクトルであり、電流と力は極性ベクトルである。ローレンツ力もフレミングの左手の法則も鏡映に対しても、空間反転に対して対称である。

 空間反転と鏡映は同じではないが、空間図形の対称性とは、鏡像を適当に回転して、もとの図形と重ねることができるかどうかということだから、図形の対称性を判定する場合、空間反転と鏡映の違いは問題にならない。

 鏡像を適当に回転してもとの像と重ねることができるとき、その空間図形は鏡映対称(アキラル)であり、重ねることができないとき、鏡映非対称(キラル)である。

体の非対称性

 日常的に経験する現象から左右を定義するのは不可能であるにも拘らず、如何なる場所にいても、我々が左右を正しく認識できるのは、我々の体の構造が本来左右非対称だからである。

 我々は自らの非対称性から、左右を認識しているが、非対称性の一つに利き手の問題がある。野球で、右投げ左打ちや、スイッチヒッターの選手がいるように、右利きか左利きかを厳密に区別できない場合もあるが、右利きが多いのは、民族、時代によらず、人類共通だそうである。

 洞窟の壁に描かれている人の手の絵は殆どが左手であるという。左手を見ながら、それを右手で書いたとのことである。

 胸のレントゲン写真を見ると左の肺が右に比べて小さいが、内蔵をみると体の非対称性がはっきりする。心臓が左にあるため、バランスを保つために、右肺は三葉で、左肺は二葉である。また、胃や腸の形も明らかに非対称である。

 脳は形の上では左右対称に近いが、その働きは左脳と右脳とで異なる。我々が左と右をすぐに認識できるのは脳の非対称性に負うところが多い。

 人の左脳と右脳の役割の分化は、人が成長するに従い進んでくる。右脳と左脳がまだ未分化の幼児にとって左右の違いを認識するのは困難である。小さな子供にアルファベッドを教えると、子供はpとq、bとdをよく間違える。しかし、左右は間違えるが、上下を間違えて、pをbと書くことは極めて少ないようである。

分子の対称性

 水の分子構造を鏡に映しても、鏡に映った水分子の構造は現実の水分子と変るところはない。水分子は二つの対称面をもち、明らかに左右対称だが、対称面を持たない分子でも、その鏡像をもとの像と重ねることができるものもある。

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対称中心

 上の写真のような分子構造には対称面は一つも存在しないが、対称中心が存在する。つまり、この分子の中心を原点として空間反転すると、分子の向きまで含めて変化しない。二個の黒い原子の中点が対称中心となる。次の図のようい、この分子をを鏡に映し鏡像を回転させるともとの分子と同じになることが分かる。

 さらに、対称面や対称中心を持たなくても、鏡映対称な図形が存在する。少々分かりにくいが、下の写真はその例であり、四回の回映軸が存在している。黒の原子を結ぶ回映軸の中心を通り、軸に垂直な平面に鏡をおいて映し、軸の回りに、π/2だけ回転すれば、もとの図形に重なる。

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4回回映軸

 対称面を持つことは一回の回映軸を持つことと同等であり、また、対称中心があれば、それは二回の回映軸を持つことと同等となる。対称中心を持つ立体図形では、対称中心を通る任意の直線が二回の回映軸となる。

 分子が対称であるかどうかは、分子が回映軸をもっているかどうかで決まる。回映軸があれば、その分子は対称(アキラル)であり、持たなければ非対称(キラル)である。回映軸を持つことが鏡映対称な分子であることの必要充分条件である。

 分子の非対称構造は、主として、不斉炭素原子の存在に起因している。炭素原子は4価であり、4本の化学結合の腕を持っていると考えることができる。4本の腕についている原子あるいは原子の集団がすべて異なるとき、その炭素原子を不斉炭素という。一個の不斉炭素を含む分子は非対称となるが、二個の不斉炭素を含む場合は必ずしも非対称とは限らない。

 非対称な分子にはその鏡像にあたる分子を考えることができる。蔗糖分子を鏡に映すと、鏡の中の蔗糖分子は、もとの分子と一致しない。鏡像にあたる分子を現実に合成することができたとしたら、鏡像からなる物質はもとの物質と融点や沸点などの物理的な性質は全く同じであるが、光学的な性質が異なる。

 光は横波であるので振動方向は進行方向と垂直である。光がある種の物質中を通過するとき光の振動方向が回転する現象を旋光とよぶ。光を迎えてみたとき、光の振動面を右に変化させる物質が右旋性物質である。

 旋光性は物質の結晶構造あるいは構成分子の対称性に起因している。水晶の旋光性は結晶構造の非対称に起因している。即ち、水晶は結晶構造がねじれているため、右旋性の水晶と左旋性の水晶とが存在している。

 蔗糖の水溶液では個々の蔗糖分子の向きはランダムであるが、蔗糖分子そのものが非対称であるため、溶液は旋光性を示す。

 鏡映対称の関係にある二つの分子構造のうち、右旋性を持つのをd型、左旋光性をもつのをl型とよぶ。のちに旋光性とは独立に、分子の幾何学的な性質からD型とL型が決められているが、D型とL型では互いに逆方向の旋光性を示すことに変りはない。

 分子構造、あるいは結晶構造が、互いに鏡映の関係にある物質では逆方向の旋光性を示すので、もとの分子と鏡像関係にある分子をもとの物質の光学的異性体という。

 蔗糖は右旋光性であるが、その光学的異性体は左旋性となるはずである。非対称な物質が右か左かの旋光性を示すのは、非対称性のため左右を区別する能力を持っていることになる。水のように、対称な物質は左右を区別できないので、旋光性はない。

生命の非対称性

 人の体はミクロにみても非対称である。細胞のなかのDNAは、ワトソンとクリックにより解明されたように、二重螺旋構造であり、そのラセン構造はすべてが右捩れである。蛋白質はアミノ酸がペプチド結合したものであるが、そのアミノ酸は全てL型であり、生体の糖はD型である。

 このような非対称性は我々人間のみではない。葡萄酸はラセミ体、つまり、D型の酒石酸とL型の酒石酸の混合物であるが、葡萄酸の中にある種の細菌を入れて培養すると、細菌は一方の型の酒石酸のみを食べ、もう一方の型の酒石酸が残る。

 スポーツ用品店にグローブを買いに来た右利きの客は右利き用のグローブを選ぶように、細菌が左右を識別して一方の酒石酸のみを選ぶのは細菌自身が非対称だからである。

 天然の蔗糖はD型であるが、L型の蔗糖を人工的に合成して、それを舐めても、蔗糖とは異なった味がするだろう。あるいは消化しないかもしれない。右利きの野球の選手に左利き用のグローブを与えても、うまくプレーができないのと同じことである。我々のみならず、細菌やウイルスに至るまで生命は皆非対称なのである。

 非現実的なことだが、もし、人の左右が完全に逆転したら何が起きるだろうか。右利きだった彼は左利きになり、もともと左にあった心臓は右に移動しているだろう。しかし、彼の脳の構造も反転するため、左右の概念も変るので彼自身は自分が変化したのでなく、周りが反転したように感じるだろう。

 街の看板に書かれた文字は鏡文字に見えるし、家の作りもこれまでとは左右逆になっていて物を探すにも戸惑い、以前使っていた野球のグローブを探しあてても、使えず、彼は鏡の世界に迷いこんだアリスのように周囲の何もかもが反転しているように感じるのであろう。

 しかし、問題はこれだけは済まない。彼はミクロな点でも左右が反転し、彼のDNAも逆捩れとなり、アミノ酸も反転してD型となっているだろう。ケーキを食べても、おいしくないないだろうし、これまでの食べ物も、非対称な食べ物は消化できないかも知れない。そして、ある非対称な食物は有毒になる場合さえある。彼のために、左右が反転した食べ物を特別に準備しなければならないのである。

 分子のレベルまで左右が逆転すると大変なことになるが、左右の違いによって引き起こされた事件にサリドマイドの悲劇がある。妊婦が飲んだ睡眠薬のなかの成分が非対称な分子構造であり、その光学異性体が混じっていて、それが催奇性を持っていたといわれている。

パリティの非保存

 磁石のどちらの極がN極かが分れば、エルステッドの実験から左右が定義できることになるが、磁極のNとSを区別する方法があるだろうか。1957年、呉(うー)女史によって、歴史的な実験が行われるまでは、全ての物理法則は左右対称であると信じられてきた。つまり、NとSを区別する方法もないと信じられてきた。

 李(りー)と楊(やん)は弱い相互作用が関与する素粒子の反応では左右の対称性が破れている可能性を示唆した。もし、対称性が破れていれば、左右が同等でなくなり、物理法則から左右を定義できることになる。

 彼等の提言を受けて実験家の呉女史はコバルト60のβ崩壊の実験を行った。コバルト60は放射性元素であり、その原子核はβ崩壊して、原子番号を一つ増やし、ニッケル60になる。

 個々の原子核は磁極をもち、ミクロな永久磁石と考えられるが、呉女史はコバルト60のβ崩壊のさい、原子核のN極側とS極側のどちらからβ線が放出されるかを測定したのである。

 もし、コバルト60のN極側とS極側でβ線を放出する確率が異なるなら、この実験からN極とS極を区別できることになり、左右も定義できる。

 室温では原子核の磁気モーメントの向きは熱運動のため勝手な方向を向いている。原子核は電子に比べて非常に重いので核の磁気モーメントは電子の磁気モーメントにくらべ、極端に小さく、核の磁気モーメントの向きをそろえるには、低温にして強磁場をかけなければならない。β崩壊の測定は磁場中のコバルト60を液体ヘリウムで冷却して行われた。

コバルト60のβ崩壊

 実験結果は大方の予想を裏切り、上図のように、β線は原子核のS極側から多く放出されたのである。これから、磁石のNSが定義され、エルステッドの実験から左右が定義できることになる。左右対称だと考えられていた自然は、その根源的なところに、左右の違いが存在していたのである。しかし、左右の問題はまだ収まらなかったのである。

反粒子

 アインシュタインの相対性理論によれば、同じ運動量の電子に対して、正のエネルギーと負のエネルギーの状態が存在していることが導かれる。

 負のエネルギーの電子とは何を意味しているだろうか。ディラックは負のエネルギー状態の粒子は観測にはかからず、正のエネルギーの状態が空っぽで、負のエネルギー状態がぎっしり粒子で満たされているのが真空と考えた。

 つまり、真空とは何もない空虚な空間ではなく、負のエネルギーの粒子で隙間なく、満たされている状態なのである。真空が光のエネルギーを貰い、負のエネルギーの粒子が正の状態に遷移すると、正のエネルギーを持った粒子1個と、負のエネルギー状態に粒子の隙間が1個生じる。

 この負のエネルギー状態の隙間は観測でき、正のエネルギーを持った粒子と同じように振舞う。これを反粒子と名付けた。もちろん、反粒子は、負のエネルギー状態にできた隙間であるから、反粒子自身は正のエネルギーを持つことになる。

 光のエネルギーによって粒子と反粒子が現われることを対発生と呼ぶ。粒子と反粒子の質量は一般には等しいが電荷は反対符号である。電子の反粒子は陽電子であり、正の電荷を持っている。

 陽子の反粒子は反陽子であり負の電荷を持つ。電荷を持たない中性子やニュートリノに対しても反中性子や反ニュートリノが存在している。また光子の反粒子は光子自身である。

粒子同士が結合して、原子核や原子、さらに分子ができるように、反粒子が結合して、反原子核、反原子、反分子ができると考えられる。またそれらが集まって反物質ができる。

 反粒子は負のエネルギー状態に空いた粒子の孔であるから、反粒子と粒子が出会うとエネルギーを出して両方とも消滅する。これを対消滅という。反原子や反分子は自然界には見つかっていないが、存在したとしても原子や分子と出会った途端大きなエネルギーを出して対消滅する。

CP変換

 鏡に映すと、左と右が入れ替わるが、鏡映や空間反転のように左右を入れ替える変換をP変換とよぶ。力学や電磁気学はP変換に対して不変であったが、β崩壊はP変換に対して不変でなくなる。つまり、β崩壊はP変換に関して、非対称であるから、左右が定義できたのである。

 次に、粒子と反粒子を入れ替える変換を考えよう。これを粒子反粒子変換、またはC変換という。C変換をすると、電荷の符号などが入れ替わるが、一般に質量は変らない。同じ符合の電荷は反発し合い、異符号は反発しあうというクーロンの法則はC変換に対して不変に保たれる。

 エルステッドの実験をC変換すると、電子が流れるかわりに陽電子が流れることになるので電流の向きは逆向きになる。電流の向きが逆向きになれば、磁石のNSも反転するので、エルステッドの実験はC変換についても不変となる。

 β崩壊において、原子核は電子とともに反ニュートリノも放出している。反ニュートリノがβ崩壊に関与していることが対称性の破れている原因である。ニュートリノや反ニュートリノは弱い相互作用に関与する中性の素粒子であり、大きさが1/2のスピンを持つ。スピンとは、角運動量の次元をもつ状態量で、粒子の自転の大きさと考えることができる。

 ニュートリノはその運動方向に向いて見たとき、左向きに自転しているが、なぜか右まわりに自転しているニュートリノは存在しない。一方、反ニュートリノは右まわりに自転していて、左まわりの反ニュートリノは存在しない。

 ニュートリノを追いかけて観測したらどのようになるだろうか。観測者の速度がニュートリノの速度より速いとニュートリノは逆向きに運動しているように見えるが、自転の向きはそのままに見えるから、ニュートリノは右まわりのニュートリノとなるはずである。それにも拘らず、右まわりのニュートリノは存在しない。ニュートリノは光の速さで運動して追い越すことは不可能だろうか。これはニュートリノが質量を持つかどうかと関係して重要な問題である。

 ニュートリノについてP変換とC変換、および両方を同時に変換したCP変換を考えてみよう。左まわりのニュートリノにC変換をすると、左まわりの反ニュートリノになるが、左まわりの反ニュートリノは存在しないから、ニュートリノはC変換に対する対称性が破れていことになる。

ニュートリノの対称性

 また、ニュートリノをP変換すると右まわりのニュートリノとなり、そのようなニュートリノも実在しないからP変換に対する対称性も破れている。しかし、二つの変換を同時に行った変換、つまりCP変換に対してニュートリノは不変である。即ち、実在する左まわりのニュートリノを空間反転すると、回転は軸性ベクトルであるから、その向きは変らず、運動の向きが逆転するので、実在しない左まわりのニュートリノになるが、さらにC変換すると、右まわりの反ニュートリノとなり、これは現実に存在するから、CP変換に対しては対称となる。

 呉女史が行ったコバルト60のβ崩壊の実験がP変換に対して非対称なのは、ニュートリノがP変換に対して非対称だからである。しかし、ニュートリノもCP変換に対しては対称であるから、β崩壊の実験はCP変換に対しては対称であると考えられる。

コバルト60のCP変換

 上図のように、コバルト60のβ崩壊を鏡に映した現象は現実には起こらないが、さらにそれをC変換すれば、反コバルト60のβ崩壊となる。つまりコバルト60のβ崩壊はCP変換に対して対称である。物質の世界に限れば、コバルト60のβ崩壊によって左右を定義できるが、二つの世界、つまり、物質の世界と反物質の世界に共通して、左右を定義するには、粒子と反粒子とを区別できなければならないことを示している。

 β崩壊の実験を、実験をしている呉女子、もろともCP変換すると、変換後、反物質からなり、さらに利き手が逆転した反呉女史が、反コバルト60の原子核を用いてβ崩壊の実験を行うことになるが、今度は反コバルト60の原子核のS極から陽電子が放出されることになる。CP対称性が成り立てば、呉女史と反呉女史の実験を区別できない。

 北半球の放物運動の鏡像が南半球で起こるように、コバルト60のβ崩壊の鏡像は反物質の世界で起きるのである。つまり、β崩壊の実験から左右を知るには、それがコバルト原子核の崩壊なのか、反コバルト原子核の崩壊なのかを知っていなければならないことになる。

 左とは何か。右とは何か。左右を定義しようと思うと、地球の南北、磁石のN極S極、粒子と反粒子が絡んだ堂堂巡りの議論となる。左右を定義するためには他の一対の用語を定義しなければならない。しかし、その一対の用語を定義するためには、結局は左右の定義が必要となる。

 アミノ酸のL型とD型では、P変換に対する非対称性のために、僅かだけ質量が異なり、左右が分らなくても両者は原理的には区別できるが、粒子からなるLアミノ酸と反粒子からなるDアミノ酸の質量はCP対称性が成り立てば完全に一致し、これらの二つのアミノ酸は、左と右の区別または粒子と反粒子の区別のうちどちらかが分らなければ、区別できないことになる。

CP対称性の破れ

 CP対称性が厳密に成り立てば、粒子と反粒子を区別できないことになる。逆に言えば、粒子と反粒子とが区別できればCP対称性は破れることになる。呉女史のパリテイ非保存の発見から7年後の1964年、中性K中間子の崩壊の実験からCP対称性は厳密には成り立っていないことが発見され、さらに、1973年、小林-益川理論によってCP対称性の破れに対する理論が示され、その後、KEK(高エネルギー加速器研究機構)のBファクトリーによって小林-益川理論の正しさが実験的に証明された。

 普通の鏡に映せば非対称だが、左と右を入れ替え、同時に、粒子と反粒子とを入れ替えることのできる鏡、CP鏡によって対称性を取り戻したかに思えた自然の女神ナツーラだが、その女神からさらに一枚、ベールを剥がしたとき、再び非対称が発見されたのである。

 もし、CP対称性が厳密に成り立っているなら、L型の分子とD型の反分子とは区別できない。つまり、自然法則は物質と反物質を区別できなくなり、宇宙には物質も反物質も存在しなかったであろう。宇宙が生まれ、そこに物質で造られた我々が存在していることが、自然界のCP対称性が破れているなによりの証拠かもしれない。―非対称ゆえに我あり―

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