千光年時空の旅

 そこから脱出できず、その中にいてしか考えることのできない我々にとって、時間や空間は哲学の対象でしかなかった。それを物理学の対象としたのはアインシュタインの相対性原理である。時間とは何か、空間とは何か、相対論が描く一見、不思議な時空のしくみについて仮想的な宇宙旅行を例として考えてみよう。
 せいぜい百年程度の寿命の人間にとつて、千光年離れた星まで宇宙旅行することは可能だろうか。光でさえ辿り着くまでに千年かかる星に、人が生きているうちに到着するのは、どんな速い宇宙船に乗っても不可能のように思える。しかし、相対論では、時間は単なるパラメーターではなく、座標系によってその進み方が異なる。宇宙船は光速を越えることが出来ないが、光速に限りなく近ければ、宇宙船の中の乗員は千光年先の星に、ほとんど歳を取らずに着くことも可能となる。
事象の間隔
 大阪から東京へ時速200キロメートルで走る新幹線のなかで、座席に座っていた一人の乗客に、二度の携帯メールの着信があった。一度目は列車が浜松を通過するとき、二度目はその30分後、熱海あたりを通過するときであった。列車の中の観測者にとっては、二度の着信は列車の中の同一の場所でのことだが、地上に固定された座標系からみれば、同じ場所ではなく、空間的に100km程離れた浜松と熱海での出来事となる。
 ある座標系から見たとき、同一場所で起きた二つの事象も、それが同時刻でなければ、相対的に等速度で運動する別の座標系から見たときには同一場所とはならない。つまり、二つの事象の空間的間隔の長さは座標系によって異なる。それでは、二つの事象の時間的間隔の長さはどうなるだろうか。
 古典力学では二つの事象の空間的間隔の長さ座標系によって変わるが、時間は座標系とは無関係のパラメーターであり、二つの事象の時間的な間隔の長さは座標系にはよらない。着メールの例では時間的な間隔の長さは、新幹線のなかでも、地上でも30分である。
 これに対して相対論では、二つ事象の間隔は、空間的間隔の長さsだけでなく、時間的間隔の長さtも座標系によって異なる。光の速度をcとしたとき、c2t2-s2なる量が座標変化によって変わらない。これは光の速度が座標系によらないことから導かれる。
 ここで、簡単のため、時間の単位を[年]、距離の単位を[光]年としよう。光は1年の間に1光年の距離を走るので、このような単位系では光の速度は1[光年]/[年]となる。二つの事象の時間的間隔の長さをt[年]、空間的間隔の長さをs[光年]とすると、t2-s2が座標変換によつて不変に保たれる。難しいことは考えず、ただ、このことだけを頼りに時空についての思考の旅に出かけよう。
宇宙旅行
 地球から発した光が1光年離れた星に到達するには1年かかる。地球から発せられた光が星で反射され、再び地球に戻ってくるまで、2年かかれば、その星までの距離が1光年ということになる。
 では、地球から千光年離れた星まで宇宙旅行するには何年かかるだろうか。光の速さを超えることが出来なければ、光の速さで旅行しても千年かかる距離を一生のうちにたどり着くのは無理なのだろうか。答は原理的には可能なのである!
 地球の時間と宇宙船の中での時間が異なるため、一生のうちどころか1時間以内にさえ着くことが可能である。地球からみれば、宇宙船の速度がどんなに速くても、確かに、到達するまでに千年以上はかかる。しかし、宇宙船の速度が光速に近づくと、宇宙船内での時間の経過はゆっくりとなる。当然、宇宙船の中の乗員の老化も遅くなる。
 宇宙船が宇宙暦0年に地球を出発し、千光年の彼方の星に到着したとしよう。このとき、宇宙船が地球出発したという事象Aと宇宙船が星へ到着したという事象Bについて、地球に固定された座標系、つまり地球系と、宇宙船に固定された座標系、宇宙船系から考えてみよう。
 まず、地球系から見れば、どんなに速い宇宙船でも星に到着するまでには1000年以上かかる。そこで宇宙暦0年に出発した宇宙船が星に到着するのを、地球のカレンダーでは宇宙暦(1000+ε)年としよう。つまり、地球系では、二つの事象の時間間隔はt=1000+ε である。同じく地球系での空間的間隔は地球と星との距離であるから、明らかに1000光年、つまり、s=1000 である。
 次にAとBの二つの事象を宇宙船系で考えてみよう。宇宙暦0年に地球を出発したとき、宇宙船に積まれた電動式カレンダーも当然宇宙暦0年に合わされてはずである。到着したとき、宇宙船のカレンダーが宇宙暦T 年を示していたとすると、二つの事象の宇宙船系での時間間隔はT 年である。しかし、二つの事象の空間的間隔は、どちらの事象も宇宙船のなかの観測者が宇宙船の中で体験したことであるから、今度は0である。
 t2―s2は二つの座標系で等しくなければならないから、(1000+ε)2-10002=T2が成り立たなければならない。。宇宙船の速度が光の速度に近づくと、εはゼロに近づくので、そのときは Tもゼロに近づくことが分かる。つまり、宇宙船の速度が光の速さに近ければ、宇宙船の中の乗員にとっては千光年の距離も瞬く間に到達できるのである。
 この場合、宇宙船から見ると、宇宙船は静止し、地球が後方に遠ざかり、星が前方から近づいてくることになる。地球と星が運動する速度に、宇宙船のなかで測った星までの到達時間 年を掛けたのが宇宙船から見た地球と星の間の距離である。この距離は宇宙船の速度が光速に近ければ、千光年よりずーっと短いことは明らかである。地球と星までの距離は、それらが宇宙船のなかの観測者に対して動いているから短く見えるのである。これを長さのローレンツ収縮という。
 一方、光速に近い速度での宇宙旅行を地球系から見ると、進行方向にローレンツ収縮した宇宙船が、千年以上の時間をかけて星に到達することになる。そして、その間、宇宙船のなかの人間は少ししか年をとっていないことになる。地球から見れば、宇宙船の中の人間は寿命が伸びたように見えるが、乗員の脳細胞もゆっくり活動するから、宇宙船の乗員にとっては、千年以上長生きしたという実感はなく、宇宙船の電動カレンダーの進みと同じ程度の時間の経過を感じることになろう。
地球時間と宇宙船時間
 地球の観測者にとつて宇宙船の中の時計の動きがゆっくりとなるのは時計の種類によるものではない。宇宙船の飛行士から見れば、宇宙船の中の時計は全て一致して同じ時刻を示しているからである。地球の観測者にとつて、宇宙船の中の時計はすべてゆっくり進むことになる。
 さらに時計のみならず、あらゆる運動が地球での運動に比べゆっくりとなるのであり、地球から見れば、宇宙船の飛行士の仕草も、心臓の動きも、さらには彼らの脳細胞の働きも、電車の中の全ての動きがゆっくりとなるのであり、時間そのものが宇宙船のなかではゆっくりと流れるのである。
 一方、宇宙船から地球を見れば、地球が宇宙船に対して動いていることになるので、地球の時間がゆっくりと流れることになる。それでは「本当は」どちらの現象がゆっくり進んでいるのだろうか。しかし、そのような問は相対論にとってはおよそ無意味である。観測者もどこかの座標系から観測しているのであり、地球と宇宙船の両方に同時にいて、両方の座標系での事象を俯瞰的に観測できる観測者など存在しえないからである。
 宇宙船に積み込んだ時計を再び地球に戻すことができれば、地球の時計と比較することによって、時間の進み方の違いがわかる。しかし、そうなれば、二つの時計は同等ではなくなる。地球の時計が常に慣性系にとどまっていたのに対し、宇宙船の時計を地球に戻すためには、宇宙船はいつも等速度で運動するわけにはいかず、地球を出発するとき、途中、Uターンするとき、そして地球に降り立つとき、時計は加速度運動しなければならないからである。この場合は、宇宙を旅行してきた時計は地球の時計より遅れる。
 渚に、砂に埋もれた自由の女神像を発見したチャールトン・ヘストン(映画「猿の惑星」)のように、宇宙飛行士が、千光年離れた星を往復し地球に帰って来たとき、その地球は、二千年以上の時間が経過した未来の地球である。そして、彼らが、宇宙旅行に出発した時点の地球に戻ることは、もはや不可能である。未来に行くことはできても、過去には戻れない。古典論でも相対論でも時間の旅が一方通行であることに変わりはない。
素粒子の寿命の伸び
 人間を光速近い速度で飛ばすことは現実には不可能なことであるが、素粒子ならそれが可能である。湯川秀樹によって予言されたπ(パイ) 中間子は、のちにアンデスの山中で発見されたが、高エネルギーの宇宙線が上空の気体分子と衝突し、π中間子が発生すると、π中間子はμ粒子とνに崩壊する。π中間子の寿命は2.6×10-8秒であるので、π中間子が光の速さで走っても、発生してから崩壊するまでの距離は10mにも満たない。そのようなπ中間子が、数kmの距離を崩壊せずに走り、地上まで到達できるのは、π中間子が高速で走っているため、地上から見たとき、π中間子に取り付けられた座標系では、時間がゆっくり流れ、π中間子の寿命が伸びるからである。

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