自明性の罠

 先般来続けてきた、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を巡る力学論争(日本物理学会誌2016年9月号会員の声)を、一言で表せないものかと苦慮していたところ、奇しくも、今回の論争相手のなかのお一人、鈴木亨氏から、「自明性の罠」という言葉をご教示頂いた(鈴木亨:「蜘蛛の糸」とPSEUDOWORK)。実に的確な表現であり、さすがと感服せずにはいられない。鈴木氏によれば、もともとは社会学用語とのことだが、ご厚意に感謝しながら、早速、使わせていただくことにした。
 それまで自明の理と思っていたことが実はそうではなかった。よくあることだが、定年退職を機に日本物理学会誌に投稿した「ポッチャン便所からの熱力学」に取り上げていることも、その一例であろう。一見、自明と思える「臍で臍より熱い茶を沸かすことはできない」という命題も、正しくは、「他に痕跡を残すことなく、臍で臍より熱い茶を沸かすことはできない」とすべきであり、他に痕跡を残すことを許すなら、臍で茶を沸かすことも、氷で茶を沸かすことも、さらには臍で水を凍らせることも可能となる。
 「自明性の罠」から解放されたとき、新しい発想が生まれる。それでは、今回の論争の焦点となっている命題「抗力は仕事をしない」は正しいのだろうか。これを自明の理とする鈴木氏や、学会誌にコメントを寄せて頂いた吉岡大二郎氏は、「カンダタが登るとき、蜘蛛の糸の張力は抗力であり、その作用点が動かないので仕事をすることはなく、仕事をしたのはカンダタの筋力である。」と主張する。筋力が仕事をすると主張する筋力派に対して、少数派ながら我々張力派は、「重力場のなかのカンダタに働く外力は蜘蛛の糸の張力だけである。内力は、系の重心運動に仕事をすることができない。カンダタの重心運動に仕事をするのは蜘蛛の糸の張力である。」と主張したい。
 エネルギーを補給したのは、カンダタの筋力であるから、張力説は、直感や常識に反する(吉岡氏のコメント)ように思えるが、カンダタの筋力は内力であるから、変形運動に仕事をすることはできるが、カンダタ自身の重心運動に仕事をすることはできない。張力説では、張力はカンダタの変形運動に負の仕事をすると同時に、重心運動に正の仕事をするという考えである。作用点の動かない張力は正味の仕事をすることはできないが、重心運動と変形運動に正と負の一対の仕事を同時にすることによって、変形運動のエネルギーを重心運動のエネルギーに変換していることになる。重心の運動方程式のなかに現れない内力が、重心運動に仕事をすると考える筋力説は不合理である。実際、人が、無重力空間のなかでいくら手足を動かしても、また体を捩じっても、外力がなければ、人の重心運動のエネルギーを増すことはできない。
 上図は鈴木氏をはじめとする筋力派が、カンダタの蜘蛛の糸登りを説明するのに、しばしば持ち出すバネ振り子モデルである。バネを吊るした糸が蜘蛛の糸、バネがカンダタの筋力で、重りがカンダタの質量であろうか。確かに、バネをカンダタの腕、重りをその胴体と考えれば、腕の筋力が胴体を引き上げるので、近似的にはカンダタが蜘蛛の糸を登るモデルとなっているが、本来、一体であるカンダタの筋力と質量とが空間的に分離されている。つまり、重りを引き上げるバネの力は、重りから見れば、外力になっている。しかし、カンダタの筋力は外力でなく内力でなければならない。
 図のモデルは、蜘蛛の糸を登っていたカンダタが別の状況に陥ったときに、その使用をお勧めしたい。つまり、蜘蛛の糸に絡まって身動きできなくなったカンダタ(重り)を、お釈迦様(バネ)が、蓮池の縁(支点O)に立ち、踏ん張って(Oから張力を受けて)引き上げる場合にはぴったりのモデルであろう。その場合はお釈迦様の筋力が蜘蛛の糸の張力を通してカンダタの重心運動に仕事をする。
しかし、その場合でも、お釈迦様とカンダタからなる系の重心運動に対して仕事をするのは、お釈迦様の足が蓮池の縁から受ける抗力である。お釈迦様とカンダタを一つの系と見なせば、両者を繋ぐ蜘蛛の糸の張力もお釈迦様の筋力も内力だからである。この図が、重力場のなかでバネの力を受けて重りが運動する図であれば、束縛力が仕事をするなどと考える必要はない。その場合に、バネの弾性が重りの運動に仕事をしたと考えることに反対しているのではない。
 カンダタが自力で登る場合も、お釈迦様が蜘蛛の糸を引き上げてくれる場合も、さらに、カンダタが登っている蜘蛛の糸をお釈迦様が引き上げる場合も、仕事をしたのは蜘蛛の糸の張力である。ただし、そのエネルギー源は異なる。最初の場合はカンダタであり、次はお釈迦様であり、最後の場合は、カンダタとお釈迦様の両方である。
 今回の混乱を引き起こした原因は今から30年以上昔に発表された論文「Pseudowork and real work」American Journal of Physics 51, 597 (1983)に遡る。車が発進するとき、仕事をするのは車のエンジンだとしているが、エンジンの力は内力であり、車の重心運動には仕事をしない。エンジンは駆動輪の回転運動に仕事をするが、車の重心運動に仕事をするのは、道路から受ける摩擦力である。摩擦力は駆動輪に負の仕事をすると同時に重心運動に正の仕事をする。その結果、エンジンは車の重心運動に‘真の’エネルギーを補給することができる。Pseudoworkという考えは、この論文が出る前はなかった。それでも、力学に不都合が生じることはなかった。さらに、論文が発表されて30年以上が経過したが、その間、Pseudoworkが力学の話題になることもほとんどなかった。系の内部にエネルギー源が存在する場合の力学にも、Pseudoworkは必要ない。

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