日本物理学会がAIに乗っ取られた日

入試問題作成と教科書

 筆者は、長崎大学に赴任直後から退職するまで、入試問題作成に関わってきたが、その経験のなかで学んだことは、出題ミスを防ぐには、 当然のことながら、作成委員の全員が、人任せにせず、作成した問題を何度も繰り返し解くことであった。さらに、問題文を、受験生に分かり易いように、簡潔かつ正確な文章に仕上げるには、その一字一句を、高校教科書の語句の使用例に照らし合わせることであった。神経を使う仕事であったが、高校の物理の教科書を読む度に、教科書の執筆には、高校と大学の多くの物理教育関係者が議論を尽くし、改訂に改訂を重ねて作り上げられただけに、さすがによくできていると感心することしきりであった。

 しかし、今回、抗力は仕事をすることができるか否か、力学の仕事についての記事を日本物理学会誌に投稿したところ、編集委員会から掲載拒否の連絡を受け取ることになった。教科書と理化学辞典では仕事の定義が異なり、教科書の定義に従えば、抗力も仕事をすることができるという筆者の指摘に対し、編集委員会からの回答は、高校教科書は分かりやすさを優先し、厳密性を犠牲にしている。曖昧に表現されている教科書の記述を理由に抗力が仕事をすると主張するのは間違いである。理化学辞典の定義が正確な仕事の定義であり、作用点の動かない抗力が仕事をすることはありえないというのであった。

 これまで完璧だと思っていた高校教科書が、仕事という力学の基本にかかわる記述に曖昧さがあったとは、まさに青天の霹靂!高校生は力学において仕事とは何かを学ぶのに教科書でなく理化学辞典を読まなければならないのだろうか。

仕事の定義

仕事の定義は、高校の物理の教科書には次のように記述されている。

一直線上で物体に一定の大きさの力をはたらかせて、その力の向きに距離だけ動かすときFxをその力のした仕事、または、力を及ぼしたものが物体にした仕事という。 数研出版「物理基礎」

 上の定義のどこが曖昧なのか分からないが、ほかの出版社の教科書も同様な記述である。かたや理化学辞典には次のように記述されている。

 力学系に力が作用し作用点がdだけ変位するとき、スカラー積(,d)を、その力が力学系になした仕事という。

 両者の仕事の定義を比較すると、教科書では「力と物体の移動距離との内積」が、理化学辞典では「力と作用点の変位との内積」である。つまり、力と掛け合わせる量が、物体の重心の移動距離か、力が作用する点の移動距離かの違いだけである。編集委員会の見解では、後者の表現が厳密で正しい表現だということになる。それなら、なぜ教科書も理化学辞典の仕事の定義を採用しないのか。それについては、理化学辞典の仕事の定義は初心者には難しすぎるからだという。しかし、これは力学以前の問題である。理化学辞典の記述が高校生の国語力にとって難しいとは思えない。

 「物体の移動距離」と「作用点の変位」とが等しくなるのは物体や力学系が質点の場合だけである。高校物理でも質点のみを扱ってはいないので、物体一般に対しては、二つの仕事の定義は明らかに異なる。教科書に定義された仕事では、外力が抗力であろうとなかろうと外力が働き、物体が移動すれば、その外力は仕事をしたことになる。教科書の仕事は力が物体の並進運動にした仕事であり、理化学辞典に定義されている仕事は、力が、物体や力学系全体にした仕事だというのが筆者の主張である。

 言葉を定義する意義は、他と明確に区別することによって、無用な混乱を避けることにある。「物体と書かれてはいるが、ここでの物体は質点に限定していると解釈しなければならない」とか、「質点ではない一般の物体の場合には、物体の移動距離は作用点の変位だと解釈しなければならない」とか、場当たり的に、定義を勝手に解釈したのでは定義の意味をなさない。編集委員会の見解は明らかに間違いである。虚心坦懐に素直に考えれば、二つの仕事が異なる仕事であることは明白である。それにも拘わらず、物理学のエキスパートからなる頭脳集団がなぜこのような初歩的な判断ミスをするのか、不思議でならなかったが、やっと、その謎が解けた。

人工知能と読解力

 囲碁界のトップ棋士を打ち負かし、πの値を数兆桁まで計算する人工知能AIは人に代わって今後さまざまな分野に進出することが予想される。2020年度からは、現行のセンターテストから記述式問題を取り入れた大学入試共通テストになる。その採点にAIの導入が検討されているようだが、AIにも致命的な弱点があるという。

 日本情報研究所のプロジェクト「東ロボ君」によれば、今のAIのレベルでは、東大を受験しても合格をするのは難しいという結論である。膨大な情報をもとに、正解を探しだす東ロボ君が東大に合格できないとは意外であったが、人間には簡単に理解できる文章でも、AIには問題文の意味を正確に理解できない場合があるという。文書中のキーワードだけを拾い読みし、全体の内容を判断するのを「AI読み」と呼ぶそうだが、情報が氾濫する現代社会に育った受験生も問題文をAI読みするので、東ロボ君は受験生全体の上位のグループには入るが、それでも東大の合格ラインには届かないそうである。

 日本物理学会誌編集委員会も投稿原稿の閲読にAIを採用しているのだろうか。いや、すでに事態はもっと深刻化しているようである。密かに会員になりすまし、何喰わぬ顔で物理学会に潜入し、強力な情報処理能力で、たちまち、学会を席巻した人間そっくりのAIたちに、日本物理学会は、すでに牛耳られているのだろうか。

 ホームページのレパートリーをSFにまで広げようしていた矢先に、絶妙なタイミングで、この上ない 絶好の題材を提供して頂いたJPS会誌編集委員会からの回答であった。(註:学会誌への投稿原稿は、その後、著者の責任で投稿できる学会誌の「会員の声」の欄に近く掲載される予定)  

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