りんごの独り言

都会
     私は真っ赤なりんごです
     お国は寒い北の国
     りんご畑の晴れた日に
     箱に詰められ汽車ぽっぽ
     街の市場に着きました
         
          (詞・武内俊子、曲・河村光陽)
 りんご畑とはおよそ無縁の、九州は城島生まれの筑後川育ちにも、この歌がどこか哀愁を帯びて聞こえるのは、昭和30年代の高度成長期の集団就職を思い出させるからだろうか。
 当時、金の卵ともてはやされ、高校進学を諦め、卒業式も待たずに、夜行列車に乗り故郷を離れていった中学時代の同級生の顔が赤いりんごと重なって浮かんでくる。まだ、フリーターやニートなどの呼び名はなく、義務教育が終われば、すでに一人前の働き手として家族の期待が寄せられていた時代のことである。
 高速道路が整備された最近では、貨物列車に代わって、トラックでの搬送が主流のようだが、都会には、地方の特産物や食糧だけではなく、ガス、石油、電力、水道水などが運び込まれる。これらの都会に入ってくる物質やエネルギーは跡形もなく都会の中で消滅しているのだろうか。
 もし、物質やエネルギーが都会に入ってくるだけで、都会から、何も出ていかなければ、いずれ都会はゴミの山に埋もれるか、灼熱地獄になるか、汚水のなかに水没するはずである。もちろん、それ以前に、都会の機能は完全に停止してしまうだろう。
 都会が正常に活動を続けるには、物質やエネルギーが入ってくるだけでなく、それらが形を変え、再び都会から出ていかなければならない。それでは都会は何を消費しているのだろうか。
 都会が消費しているのは物質やエネルギーそのものでなく、それらの持っている価値である。都会は価値の高い物質やエネルギーを取り入れ、その価値を消費し、価値の低くなった物質やエネルギーを周りに放出している。
 ここでの価値は時間的にも空間的にも変動する経済的な価値とは異なる。都会が活動のために消費している普遍的な価値を熱力学的価値と呼ぼう。
 熱力学的価値は物質やエネルギーの質と量の積で表される。一方、質の逆数と量の積をエントロピーという。質の逆数は質の悪さを表しているので、エントロピーは物質やエネルギーの質の悪さを定量化した示量変数ともいえる。
 都会はエントロピーの小さい物質やエネルギーをとりいれ、それをエントロピーの大きい物質やエネルギーとして放出している。都会はその活動によって生じたエントロピーを外部に放出していることになる。
 都会は内部でエントロピーを作り出していることになるが、都会の活動をビデオにとり、逆向きに再生すると何が起きるだろうか。都会にゴミや排水や廃熱が入り、都会から食料や特産物やガス水道水が周囲へ出ていくことになる。つまり、価値の低い物質やエネルギーが入り、価値の高いものが出ていき、都会はエントロピーを消滅させていることになるが、そのようなことは現実には決して起こらない。
工場
 次に工場を考えてみよう。価値の低い原料から価値の高い製品を作り出す工場は熱力学的価値を作り出しているのだろうか。つまり、工場はエントロピーを消滅させているのだろうか。確かに原料と製品の出入りだけ見れば、工場は熱力学的価値を産み出しているかのように見える。
 しかし、工場に出入りしているのはそれだけではない。電力、燃料、水など価値の高いものを取り入れ、工業廃棄物、廃熱、廃液など価値の低いものを放出しなければ工場は動かない。工場に出入りするもの全ての価値を考えれば、工場も熱力学的価値を消費していることになる。つまり、工場もエントロピーを生成し、それを外部に放出している。
 それなら、なぜ我々は価値を消費する工場をわざわざ作るのだろうか。それは工場が熱力学的価値を消費しているにもかかわらず、経済的価値を生み出すことができるからである。
 熱力学的価値と経済的価値は必ずしも一致しない。工場に取り入れられる電力や水の熱力学的価値は高いが、それらの経済的な価値はそれほど高くない。それにくらべ、工場からでてくる製品は経済的な価値が非常に高いため、工場は、経済的価値を生み出すことができるのである。つまり、製品の経済的価値にくらべ、化石エネルギーや電力などを‘不当に安く’使うことで、工場は採算が成り立っている。
 その他に工場は労働力も消費している。人間の労働力は質のよいエネルギーであるが、工場で使われる石油や電力にくらべ、エネルギーの量としては極めて少ないので、その熱力学的な価値は無視できる。しかし、その経済的価値は異常に高く、日本のような人件費の高い国では、経済的な価値も生み出せなくなり、工場を人件費の安い国に移転することになる。
生態系
 植物は太陽光と二酸化炭素と水を原料として、炭水化物と酸素をつくりだしている。大気中に370ppm程度の薄い濃度で広がっている二酸化炭素をかき集め、炭水化物をつくり、植物自身に蓄えられるのだから、一種の生物濃縮である。
 さらに植物は太陽エネルギーを炭水化物の化学的エネルギーに変えている。植物はエントロピーを消滅させているように見える。しかし、植物に取り入れられた太陽エネルギーの大部分は質の悪い熱として環境に捨てられている。化学的エネルギーの入った炭水化物という製品を生産している植物も、通常の工場と同じく、やはりエントロピーを生成し、それを環境に放出しているのである。
 植物によって生産された化学的エネルギーは食物連鎖のなかで、消費者に受け渡され、その一部は彼らの新陳代謝のエネルギーとして使われ熱になる。残りは、より高次の消費者に受け渡され、そこでもエネルギーの一部は彼らの新陳代謝のために使用される。
 このように植物が太陽エネルギーから生産した化学的エネルギーは食物連鎖のヒエラルヒーのなかで、次々と高次の消費者に受け渡されるごとに、代謝エネルギーとして使用されながら減少し、最後はすべて熱になる。化学的エネルギーが消費される過程で酸素が環境から取り入れられ、二酸化炭素と水が環境に放出される。
 新陳代謝のエネルギーとして消費しきれなかったエネルギー、つまり、枯れた植物、動物の死骸、排泄物などに残されたエネルギーもバクテリアの生命維持のために使用され、二酸化炭素と水と熱が環境に放出される。動物にとって役に立たない排泄物のエネルギーもバクテリアにとってはまだまだ有益なエネルギー資源である。
 人間社会が化石エネルギーを用いて、‘食’以外のものを工業的に生産し、それを消費するため、大量の廃棄物と廃熱を出しているのに比べ、生態系では‘食’だけを太陽エネルギーのみによって生産し、その‘食’だけを消費している。
 生態系は、太陽エネルギーを取り入れ、それを役に立たない熱エネルギーとして環境に放出しているが、物質は完全に循環していることが分かる。つまり、廃熱以外には廃棄物の存在しない、ゼロエミッションの理想的な循環型社会を形成している。
地球
 水飲み鳥というのようなおもちゃがある。アインシュタインが日本を訪れたとき、これを見て大変興味を抱いたという。内部の揮発性の液体が蒸発すると、鳥の尻が軽くなって頭が下がり、くちばしをコップの水に浸ける。フェルトで包まれた頭が、毛管現象によってくちばしから上がってきた水に濡れると、気化熱が奪われ、頭が冷やされ、中の蒸気が液化し、尻が重たくなり再び頭を上げる。これを繰り返すという仕組みである。
 水飲み鳥を密閉された箱の中に閉じ込めると、やがて、箱の中が水蒸気の飽和状態になり、水飲み鳥は気化熱を放出できなくなるため、生き続けることはできない。鳥はコップの水と大気とが非平衡であるために動き続けるのだが、地球もまた、太陽と宇宙空間とが非平衡であるために活動を続ける巨大な水飲み鳥でもある。
 雨の日はなんとなく気分が重たくなるが、雨の日の湿った空気は乾いた空気よりも軽い。空気の平均分子量は29程度、水蒸気の分子量は18である。地球は物質的にはほぼ閉じた系であるが、エネルギー的には開放系であり、太陽から地球に入射した太陽エネルギーは、地球上にさまざまな物質循環を引き起こし、その代償としてエントロピーが増大し熱となる。
 その廃熱は、軽い水蒸気によって潜熱として上空に運ばれ、再び液化されるさい、冷たい宇宙空間へ赤外線として捨てられる。地球も水飲み鳥も環境からエネルギーを貰い、質の低下した熱エネルギーを外部に潜熱として放出することにより、生きているのである。
 大学の研究室でも水飲み鳥を一羽飼っている。カルシウム分の多い大学の水を与えているせいか、それほどの歳でもないのに、もともとは赤いフェルトで覆われていた頭は、飼い主以上に、すでに真っ白である。
 頭の毛細管がカルシウム塩で詰まっても脳梗塞にもならず、元気で水を飲み続けているが、水飲み鳥の命の糧はコップの水と部屋の大気との間の、非平衡に起因するエクセルギー、あるいは、‘負のエントロピー’ということになろう。
 量子力学の建設に多大な貢献をしたE.シュレーディンガーはその著書、「生命とは何か 」のなかで、生命は負のエントロピーを食べて生きていると書いている。しかし、水飲み鳥はもちろん生命ではない。「負のエントロピーを食べる」ことは生命であるための必要条件であるが、十分条件ではない。生命に限らず、都会も工場も地球も、活動するものは、すべて、環境に「正のエントロピーを吐き出して」、つまり、「負のエントロピーを食べて」生きているからである。
 シュレーディンガーの表現をより的確な表現に治せば、「生命も含めて、あらゆる散逸構造は内部で発生したエントロピーを外部に吐き出して活動している」ということになろう。
エネルギーは循環するか
「循環型社会とはどんなものか知っているか。」
「バカにしなさんな。それぐらいことは私にだって分かりますよ。」
「それなら、循環型社会では何を循環させるのか、物質か、エネルギーか、それともその両方か。」
 一人娘が県外に出ていらい、共通の話題もなく、すっかり夫婦の会話が途絶えた我が家だが、久しぶりの会話のなかで妻に循環型社会について尋ねてみた。これに対する彼女の答えは「エネルギー」。
 学歴詐称でなければ、妻も、一応理系の範疇に入ると思われる学部を卒業しているはずだが、我が環境科学部の学生諸君は大丈夫だろうか。少し心配になったので、必修科目の時間に1年生全員に対してアンケートをとり、同じ質問をしてみた。
 残念ながら予感は的中した。「物質」と答えた学生はわずか18名、「エネルギー」が21名、「物質とエネルギーの両方」が87名、回答した126名のうち、何と107名の学生が「エネルギーを循環させることができる」と考えていたことになる。2年生、3年生にもいろんな機会に聞いてみたが、それほど大差はないようである。
 これでは妻を馬鹿呼ばわりしたことを取り消さなければならないようだが、エネルギーを循環させることができるなら、環境問題など存在せず、環境科学部も存在しなかったはずである。物質を循環させるにはエネルギーの散逸が必要だが、散逸したエネルギーを再生して循環させることはできない。
 エネルギーも循環すると考えているのは我が家の愚妻と長崎大学環境科学部の学生だけだろうか。そこで、インターネットのGoogleで次の検索を試みた。結果は次のとおり。
     循環エネルギー:1470件
     エネルギー循環:3020件
     エネルギーの循環:3990件
     エネルギーを循環させる:163件
     再生エネルギー:2110件
     renewable energy:3920000件
               (但し、2004年頃当時での検索)
 このなかにはエネルギーの循環という表現は間違いだと指摘したものも含まれているが、大部分はエネルギーの循環を肯定しているようにとれる。大学のシラバス、れっきとした会社や事業団のホームページもあった。
 コ・ゼネなどのエネルギーの有効利用をエネルギー循環と呼んでいるようであるが、これは誤解を受けやすい。また、太陽光エネルギーを再生可能エネルギー(英語ではrenewable energy)と呼ぶのも、紛らわしい表現であろう。いくら使ってもほとんど無尽蔵に湧き出てくるから、そのように呼んでいるようだが、どんなエネルギーであれ、一度使用され、質の低下したエネルギーが元の質を取り戻し、再生することはない。
 エネルギーを段階的に有効に使用すること自体は大切なことではあるが、それをエネルギーの循環と呼ぶのは、人が単にジャンプしているのを、空中浮遊と称するのと同じようなものである。
 エネルギーを本当の意味で循環させることができるなら、マックスウェルのデモンや第二種の永久機関が作れることになる。循環させたエネルギーを何度も使って、物質を循環させれば、環境問題も解決できるだろう。しかし、熱力学の法則が正しいなら、生命がいくら進化しても、いかなる突然変異が起ころうとも、さらに、遺伝子をいくら操作してもマックスウェルのデモンは生まれないし、つくれない。また、科学技術がいくら進歩しても、第一種であれ、第二種であれ、永久機関は作れない。それは、念力で空中浮遊するのと同じく不可能なことである。
 科学用語は専門家どうしで、限られた意味で用いるのならともかく、不用意に用いると、とんでもない誤解を招く。もっとも、言葉の定義は難しいものである。例えば、自然エネルギーと聞けば、それなら自然でない人工的なエネルギーが存在するのかと訊ねたくなる。言葉の意味が定着するにはある程度時間が必要であろうが、一般の人々に対しての啓発や教育が重要な環境科学においては、循環エネルギーや再生エネルギーという意味不明の用語を使うのは控えるべきであろう。
スローライフのすすめ
 大学に入学してすぐの解析学の教科書に、数列や関数の極限を定義するのにε-δ式定義が出てきて、そのまわりくどさに少々面食らったが、平成十二年に制定された循環型社会形成推進基本法の第一章第二条に述べられている循環型社会の次の「定義」に比べれば、数学のε-δ論法などは、まだ遥かに分かりやすい。
(定義)
第二条 この法律において「循環型社会」とは、製品等が廃棄物等となることが抑制され、並びに製品等が循環資源となった場合においてはこれについて適正に循環的な利用が行われることが促進され、及び循環的な利用が行われない循環資源については適正な処分(廃棄物(廃棄物の処理及び清掃に関する法律(昭和四十五年法律第百三十七号)第二条第一項に規定する廃棄物をいう。以下同じ。)としての処分をいう。以下同じ。)が確保され、もって天然資源の消費を抑制し、環境への負荷ができる限り低減される社会をいう。
 何とも難解な文章であるが、要するに、ここで定義されている循環型社会とは、リサイクルによって、天然資源の消費を抑制し、環境の負荷を軽減させる社会のことのようである。しかし、リサイクルさえすれば、天然資源の消費を抑制できるだろうか。
 大量のエネルギーさえ使えば、原理的には、物質はいくらでも循環させることができる。大量の化石エネルギーを使って大量の物質を循環させる社会は、それを循環型社会と呼ぶかどうかはともかく、少なくともそれは環境にとって好ましい社会ではなく、持続可能な社会ではない。
 持続可能な、理想的な循環型社会とは生態系のように、太陽エネルギーだけで物質を循環させている社会のことである。もちろん、高度に発達した現代社会を太陽エネルギーだけで維持するのは無理と思われるが、天然資源の消費をできる限り抑制するには、物質を循環させるだけでなく、循環の速度を遅くする必要があろう。社会もある意味では熱機関であり、循環の速度が速いほどエネルギーの消費量が大きくなるからである。
 循環の速度を遅くするには、車や家電製品などの買い替え年数を長くすることである。車はポンコツになるまで乗る。もちろん、まったく乗らないのが一番よいが、そうすれば、当然、靴は傷む、しかし、靴や靴下は穴があき、服は擦り切れれば、破れにふせを当てて使う。これがスローライフ時代のニューファッションである。
 そうは言っても、今、日本は大変な不景気であり、中高年者はリストラに遭い、若者は大学を出ても職がない。それなら、景気回復のために需要を伸ばせという。しかし、物を買えば、それは、いずれ廃棄物となる。いつもジレンマに立たされることであるが、贅沢や無駄使いしなければ、不景気になるという経済の仕組みこそ問題にすべきであろう。
 不況とは言え、市場には物が溢れ、贅沢を贅沢と思わぬ時代に、質素倹約、スローライフなどと言っても、それは時代錯誤の「りんごの独り言」としか聞こえないだろうか。

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