人の寿命と原子の寿命

マクロとミクロの寿命

 人も、その構成粒子である原子も、その寿命はともに有限であるが、人には履歴が記録されるのに対し、個々の原子に履歴は記録されない。人の死が主に老化や病気に起因するのに対し、原子の死は純粋に確率的となる。マクロな世界と、量子論に支配されるミクロな世界、二つの世界での寿命と死について考察しよう。

賽の河原の伝説
      ひとつ積んでは父のため
      ふたつ積んでは母のため
      みっつ積んではふるさとの
      ・・・・・・・・・・・・

 幼くして死んだ子供は、先立つ親不孝のため、極楽に行けず、三途の川の手前で足止めされるという。その子供が、現世の父母を慕いながら、賽の河原で石を積んでいると、地獄の鬼がそれを壊しにくる。

 三世代同居がまだ当たり前の、筆者がこどもの頃に、母方の祖父が話してくれた「賽の河原の伝説」である。こどもの成長を一年一年楽しみにしながら待ち望んでいる両親に訪れる突然の悲しみ、こどもが賽の河原で積んだ石の数は、そのこどもが生きた年の数なのだろうか。

 乳幼児死亡率の高さはその時代の平均余命に反映されている。平均余命とは、これから、どのくらいの期間生きることができるかの推定値であり、生まれたばかりの赤ちゃんの平均余命が平均寿命ということになる。

 年齢と平均余命の和は平均寿命よりも長くなる。さらに、人口統計表を見ると、現在では、年齢別の平均余命はゼロ歳児の平均余命が一番長いが、戦前はゼロ歳児よりも5歳児や10歳児のほうが長くなっている。昔の乳幼児死亡率の高さが、平均寿命を下げ、年齢別の平均余命に逆転現象を生じさせていたのだが、こどもが一定の年齢まで育ってくれれば、まずは一安心ということから、七五三を祝う風習が生まれたという。

 さらに、統計には現れないが、望まれずに生まれ、すぐに絶たれた命もあろう。貧困や飢饉などのために、やむにやまれず、こどもを間引きした親のやるせない気持ちが、賽の河原の物語を一層残酷なものにしたのだろうか 。

 しかし、医療技術が進み、嬰児や乳幼児の死亡率が減り、食糧も豊富になり、むしろ飽食の時代となった現在でも、こどもの受難は続く。新聞やテレビでは、親の虐待による幼児の死亡が、しばしば、報道される。賽の河原の現代版では、こどもが、ひとつひとつ積み上げた石を途中で壊す鬼は、罪悪感もなしに、わが子を殺す親なのではないだろうか。

平均寿命と平均余命
      正月や冥土の旅の一里塚
      嬉しくもあり嬉しくもなし

 歳をとるにつれ、体力の衰えを感じるようになるが、「一休さん」でお馴染みの室町時代の禅僧、一休宗純が詠んだ狂歌のように、人は年を経るごとに冥土への旅の一里塚を通過しているようである。生命保険の勧誘のチラシなどをみると、支払い期間が同じでも加入時の年齢が高いほど毎回支払う保険金は当然のことながら高くなる。

 保険の払込金額は加入者の年齢における平均余命によって計算されている。しかし、ある年齢層の平均寿命や、平均余命は、その年齢層の全員が死んだあとでしか分からないはずである。最近では、少子化とともに、長寿化によって、年金問題がクローズアップされているが、保険や年金の計算で用いられる平均寿命や平均余命はどのような計算方法によって推定されているのだろうか。

 ある年齢層の平均余命は、その年齢層の今後の年間死亡率がわかれば計算できるが、現時点ではもちろんそれは分からない。そこで、各年齢層の死亡率は将来も変化しないとして計算する。つまり、現在t歳の層の、k年後の年間死亡率は、現在のt+k歳層の年間死亡率に等しいと仮定して計算されている。しかし、生活環境の変化や特効薬の発見などにより、死亡率には年次推移があるので、平均余命は低年齢ほど、信頼度は下がる。

 国連の[世界人口白書2009]によれば、日本は世界一の長寿国であり、その平均寿命は男性79.4歳、女性86.5歳であるという。平均寿命はゼロ歳児の平均余命であるが、平均寿命が伸びたのは現在の老人の死亡率が低いからであり、新生児がこれから歳を取っていくとき、彼らのその時々の死亡率が現在の同じ年齢層の死亡率と同じになるとは限らないので、現在のゼロ歳児が平均的に今の平均寿命まで生きられるとは限らない。

 一時、保険会社が相次いで倒産したことがあるが、それはバブルに投資したからであり、そうでなければ、これまで日本人の平均寿命は伸び続けてきたのだから、生命保険会社は儲からないはずはないのである。

不老有死の世界

 人の平均余命は、戦前の幼児期のように逆転している例もあるが、いずれにしても平均余命は年齢によって変わる。しかし、平均余命が、年齢によらず、一定であるとすれば、どのようなことになるだろうか。いくら歳を取っても平均余命が赤ちゃんのときから変わらないのだから、平均余命はいつも平均寿命に等しいことになる。若者も老人も、今後生きる長さは平均的には同じになり、何年経っても、生きている限り、平均余命が減ることはないので、老化の意味もなくなってしまう。

 老化しなければ、年間死亡率も年齢によらず一定となるはずである。もし、年間死亡率が一定であれば、これからx年以上生きる確率はxとともに指数関数的に減少する。もちろん、人は老化し、その平均余命は年齢とともに減少するので、人間に対して当てはまらないが、寿命は有限なのに、老化しないもの、そのような例はあるだろうか。家にしても車にしても耐用年数という有限な寿命を持つものには、劣化や摩耗という老化が伴う。限りある寿命と老化、これは生命に限らず、マクロな世界では切り離せないもののようであるが、ミクロの量子の世界では、どうなのだろうか。

量子の世界はエイジレス

 コップ一杯の水を海に捨て、世界中の海をよくかき混ぜたあと、海から再びコップ一杯の水をすくい取ると、そのコップにはもとの水分子が千個ほど含まれる計算になるという。これは、ウィリアム・トムソンこと、ケルビン卿が、分子の微細さとアボガドロ定数の大きさを示すのに用いた譬え話である 。このトムソンの譬え話をもとにして、いろいろと面白可笑しい話を作ることができよう。「かつて、ニュートンの脳細胞を形勢していた原子や分子が、今の君の脳味噌に何個含まれているか」などである。

 ここで一つだけ、注意しておくと、世界中の海水の量 が分かれば、コップのなかのもとの水分子の個数を計算で求めることはできるが、その分子の数を実際に測定するのは不可能である。コップの中のどの水分子がもとの水分子かを、分子に目印をつけて、識別することはできないからである。

 北極の氷の中から取りだした1個の水分子と、水素を燃焼させてできたばかりの水のなかの水分子には何の違いも存在しない。原子や分子の状態を指定するのは量子数のみであるので、同じ量子数をもつ同種の原子や分子は区別が付かないのである。

 個々の原子や分子には、新しいものとか古いものとかの区別はない。つまり、原子や分子には、履歴が記録されないので、老化という概念は存在しない。我々の脳のなかに、ニュートンから贈られた原子が何個入っていようと、頭の良し悪しとは無関係なのである。

 超伝導や超流動はマクロな量子効果とも呼ばれている。超伝導状態の永久電流や超流動状態に生じた渦も、エネルギーを散逸させないので、老化することなく、永久運動をする。超伝導や超流動の状態は、原子核のまわりをまわる電子の状態と同じく、量子力学的状態なのである。

 量子の世界には、冥土への一里塚は存在せず、老化も成長もないエイジレスの世界であるのに対して、生命は生きている限り、絶えずエネルギーを散逸させている。生命がエネルギーを散逸しながら活動することと、老化することは、生命が生きていることの証でもあろう。

サドンデス

 老化という概念のない、原子や分子のミクロの世界では死の概念も存在しないのだろうか。原子は、人間のように老衰や病気によって死ぬことはないが、原子には、何の予兆もなく、崩壊という突然死がやってくる。原子には履歴が一切記録されないから、その死は確率的なものとなる。

 放射性元素では、個々の原子の原子核は放射能を放出して、崩壊し、他の原子核へと壊変する。この壊変するまでの時間の目安が放射性元素の寿命ということになる。個々の原子核の崩壊は確率的なものであり、同種のものであれば、新しい原子核でも古い原子核でも1個の原子核が崩壊する確率はみな等しい。原子核や素粒子では、平均寿命と平均余命はいつも等しいのである。

 ある時点で崩壊しないで生き残っている放射性元素が、それから時間が経過した後でも崩壊しないで生き残っている確率は、時間とともに指数関数的に減少する。放射性元素の寿命とは放射性元素が最初の量の1/eに減少するまでの時間のことであり、寿命 の逆数が単位時間当たりの崩壊率である。

年代測定

 一生の間での心臓の鼓動数は種とは無関係に、ほぼ決まっているという 。心臓の鼓動数は年齢と同じく、その生き物の老化の度合いを表していることになる。原子も、生き物の心臓のように、あるいは時計の振り子のように振動しているが、時間の経過が原子自身に記録されることはない。老化という概念のない個々の原子であるが、それが集団になると、時間の経過が、崩壊した割合として、集団に記録され、それから時間を測定することができる。

 炭素には、原子量の異なる3種類の同位元素が存在している。炭素原子の99%は原子量が12の炭素であり、残りの1%もほとんどは原子量が13の炭素であるが、炭素原子全体の1兆個に1個程度の割合で、放射性原子の炭素14 が存在している。原子量14を持つ炭素14は は半減期5730年でβ崩壊し、安定な窒素元素になる。炭素14が放射性元素であるにもかかわらず、一定の割合で存在しているのは、大気上層で、宇宙線によって生成された中性子が窒素原子に衝突することにより、炭素14が常に生まれているからである。それが、大気循環によってかき混ぜられるので、炭素14は地表でもその濃度は一定の値に保たれている。

 炭素原子のなかの炭素14の濃度は空気中のみならず、生体のなかでも環境と同じ比率に保たれている。生体が生きている限り、新陳代謝によって生物も炭素循環のなかで生きているからである。しかし、一旦、生体が死ぬと、その死骸は炭素循環からはずれ、閉鎖系となり、炭素14が環境から補給されることがないので、その濃度は指数関数的に減衰する。これから、動植物の死骸に含まれている炭素14の濃度を測定することにより、それが生きていた年代を推定できることになる。

 この方法による年代測定は環境の炭素14の濃度が常に一定であれば、問題はないのだが、実際には少し変動している。地球磁場が変動すると、宇宙線の量が変動するため、上層での炭素14の生成率が変わる。核実験による放射性物質の増加も 濃度に影響する。また、化石燃料には炭素14は崩壊してしまって、ほとんど含まれていないので、化石燃料の使用によって、大気中の 濃度が薄められることになる。正確に年代を測定するにはこれらのことを考慮して補正しなければならない。

 また、海中の生物の化石の年代測定では、実際にその生物が地球上に現れた時代よりも古くなる結果を示すことがある。炭素循環は深海までは充分にいきわたっていないからである。炭素14の半減期の長さから考えると、この方法により、測定できる年代の限界は数万年程度と考えられている。これより、古い年代の測定、例えば岩石や隕石の年代測定などには、半減期のもっと長い放射性物質を用いる必要がある。しかし、放射性物質を用いる限り、初期の状態に放射性元素がいくら含まれていたかが分からなければ年代は測定できない。岩石や隕石の年代測定には、いろいろな方法が考案され、また他の年代測定によってクロスチェックすることにより年代を確定している。

陽子の崩壊

 大統一理論によれば、陽子も有限な寿命をもち、陽電子と中性パイ中間子に崩壊するという。中性パイ中間子はすぐに2個のγ線に崩壊するので、陽子の崩壊を観測するには、その際、放出されるγ線を観測すればよい。しかし、大統一理論が予言している陽子の寿命は{ 10 }^{ 32 }年という膨大な長さであり、これは1兆年の1兆倍のまた1億倍である。宇宙の年齢でもたかだか、百数十億年であることを考えると、陽子の寿命は想像を絶する長さであろう。そんな長い寿命を持つ陽子、つまり、水素原子の原子核が崩壊する瞬間を地下数千メートルの穴倉に潜って待ち続けている高エネルギー実験物理学者は、人間の平均寿命が延びたとはいえ、一体、何歳まで生きるつもりでいるのだろうか。 

 陽子の寿命が{ 10 }^{ 32 }年ということは、それだけ待てば必ず崩壊するということではない。また、それだけ待}たなければ、崩壊は起こらないということでもない。量子の世界は老化のないエイジレスの世界であるから、陽子の崩壊も確率的なものであり、大統一理論の予言が正しければ、1個の陽子が1年の間に崩壊する確率が、{ 10 }^{ 32 }分の1ということである。それなら、{ 10 }^{ 32 }個の陽子を1年間観測し続ければ、そのうちの1個の陽子のサドンデスが期待できることになる。{ 10 }^{ 32 }年はとてつもなく長い時間だが、アボガドロ数が6×{ 10 }^{ 23 }であり、1個の水分子は2個の水素原子核、つまり、2個の陽子を持つので、{ 10 }^{ 32 }個の陽子は、水{ 10 }^{ 8 }モルに当たり、それは約2000トンの水であるから、それほどたいした量ではない。現在、陽子が崩壊した証拠は観測されていないが、岐阜県神岡鉱山跡に建設され、宇宙からのニュートリノを観測しているカミオカンデも当初の目的は陽子の崩壊を観測するために建設されたのである。   

コメント

  1. 林 征治 より:

    後藤先生こんにちは。
    以前、「自然界の万華鏡」と題した報告書をいただき、内容に感心して
    追加部数をお願いしてお送りいただいたことがありました。
    故 高山哲信 氏 が後藤先生の文才にいたく感動されて
    出版を勧められていたことを思い出しました。
    埋もれてしまうには惜しい文章ばかりでしたので、
    新作も含めHPで公開されるのは素晴らしいことと思います。
    友人にもこのアドレス知らせておきます。
    この原子と人の寿命、考えるとふしぎですよね。
    個々の履歴記憶有無と確率、大数の法則。
    小職には娘が3人いますが、3人目の時は、
    「3人続けて娘の確率は8分の1だから、次は
    そろそろ男の子だろう」と思ったものです。
    でも、3人目は、あくまでも上二人の履歴とは関係なく
    やはり確率2分の1なんですよね。
    ちなみに、このことは、娘に話したことはありません。
    (今となっては、寧ろ娘で良かったと思っていますが)
    時々HP拝見させていただきます。更新楽しみにしています。

    • nobuyuki より:

      コメント有難うございます。出版事情が厳しい折、自費出版も考えたのですが、それよりもホームページで公開したほうが多くの方に読んでいただけると思い、娘に教えてもらって悪戦苦闘しながら作りました。まだまだ更新しますので、周囲のかたにも、どんどん紹介してください。

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