はじめに
物理的意味での「仕事」は、高校物理教科書の力学の箇所では「力と、力を受けた物体の変位との内積」と定義され、理化学辞典には「力と、その作用点の変位との内積」と定義されている。前者を定義A、後者を定義Bと呼ぶことにしよう。
仕事を受ける対象を質点に限定すれば、「物体の変位」と「力の作用点の変位」は同じだから、定義Aと定義Bは同じになるが、高校物理教科書では「質点」についても明確に定義され、「物体」と明記している定義Aを質点に限定した仕事の定義と解釈するのは論理的に無理がある。
定義Aと定義Bがどちらも正しいとすれば、定義Aによる仕事Aと、定義Bによる仕事Bとは明らかに異なる仕事である。「物体の変位」とは、「物体の重心の変位」であり、仕事をされる側の重心に課せられた条件である。一方、「作用点の変位」は仕事をする側の力に課せられた条件である.仕事Aは物体の運動のうち、物体の重心運動にされた仕事であり、仕事Bは力が、物体や系全体にする仕事と考えるのが自然である。比較的最近、30年程前に発行された辞典には、物体の変位と作用点の変位を混同し、仕事Aと仕事Bの違いがあいまいになっているのもあるが、それは論外である。
「木」での仕事
一般の物体の場合でも、重心運動以外に運動が存在せず、物体の変形もなければ、仕事Aと仕事Bとは一致する。つまり、その場合は
仕事の関係式Ⅰ: 仕事A=仕事B
と考えてよい。また、物体が回転しながら自由落下する場合のように、二つの運動が連動していなければ、重心運動にする仕事は仕事Bになる。
次に、重心運動は存在せず、変形もなく、回転運動のみの場合も同様である。具体的に図1のように、重心を通る回転軸が固定された円盤に巻き付けた糸を張力Tで引き、回転させる場合の仕事を考えてみよう。

回転運動にする仕事を仕事A’とすれば、それは回転運動に働く力のモーメントと、回転した微小角度dφとの積として定義される。円盤の半径をrとすれば、力のモーメントはrTとなり、仕事A’はrTdφである。力Tの作用点sの変位をdsとすれば、rdφはdsに等しい。その結果、図1の場合の、仕事A’はTdsとなり、仕事Bに等しくなる。 つまり、運動が回転運動のみの場合も、
仕事の関係式Ⅱ: 仕事A’ = 仕事B
と考えてもよい。一本の木のみの場合、その「木」の種類が、仕事Aでも仕事A’でも仕事Bと同じになる。
「林」での仕事
重心運動と回転運動とが共存し、両者が連動している場合の仕事はどうなるだろうか。図2のように円柱が傾斜角θの斜面をころがる場合、重心運動と回転運動とが存在し、仕事も重心運動にする仕事Aと回転運動にする仕事A’とが存在する。

半径α、質量M、中心軸のまわりの慣性モーメントIの円柱が傾斜角θの斜面を滑らずにころがり落ちる運動は、次のように、円柱の重心運動と回転運動による連立方程式で表される。

(1‐1)はx方向の重心運動の運動方程式であり、(1‐2)は回転軸のまわりの回転の運動方程式であり、ころがり運動の運動方程式は、上記のような連立方程式になる。重心運動と回転運動の両方に抗力Fが現れるのは、二つの運動がFによって連動していることを示している。
(1-1)と(1-2)からなる連立運動方程式から、数学的手法で次の、連立した仕事とエネルギーの式が導かれる。

ここで、dxは作用点の変位ではなく、円柱の重心の変位である、 (2-1)の左辺は仕事Aであり、(2-2)の左辺が仕事A’である。抗力Fは仕事Aに負の仕事をし、仕事A’に正の仕事をすることがわかる。二つの式を加えると

となり、(3)は力学的エネルギーの保存則であり、その左辺は仕事Bである。仕事Aと仕事A’とが存在するとき、
仕事の関係式Ⅲ: 仕事A+仕事A’=仕事B
となる。種類の異なる二本の木が抗力によって絡み合っている場合は、仕事Aも仕事A’も仕事Bにはならず、二つの和が仕事Bになる。ここまでは、理系学部であれば、昔は大学初年次で習っていた。
しかし、40数年まえに発表されたpseudowork説では、連立運動方程式から(3)式に至る一連の式を切り離して並べ変え、(2-1)と(3)式としたために、(2-2)式が忘れられ、抗力の仕事が(2-1)式だけに現れるとして、(2-1)式の左辺を力学では理解できない擬の仕事としている。(2-1)式と(2-2)式とは連立方程式であり、片方には、-Fdxがあり、もう片方には+Fdxであるから抗力が仕事をすると考えてもエネルギー保存則に反することはない。
人体切断というイルージョンマジックがある。箱のなかに一人しかいないように見せかけるから、観衆は驚くが、最初から上半身役と下半身役の二人が隠れていれば驚くに当たらない。切り離せない連立方程式を切り離し、その片方だけに注目したため、物理教育は40数年間、人体切断のトリックに気づいていない。
「森」での仕事
図3のように質量を持つバネの一端を壁に固定し、他端Sに力を加えてバネを伸ばす場合を考えてみよう。バネに働く水平方向の力は、壁から左向きに受ける抗力Rと、S点が手から右方向に受ける力Tである。通常、バネの質量は無視するが、質量があれば、有限な速さで引くとバネに重心運動が生じる。

力Tの作用点Sの微小変位をdsとすると、バネの重心の変位はds/2になる。仕事Bと仕事Aは、それぞれ、定義から、
仕事B=Tds (4)
仕事A=(T–R)ds/2 (5)
となる。仕事Bから仕事A引くと、残りはバネの伸びにした仕事になると考えられるので、それを仕事Cと呼ぶことにすると,
仕事C=(T+R)/2・ds (6)
となる。仕事Aと仕事Cを比較すると、力Tは仕事Aと仕事A’の両方に、Tds/2の仕事として寄与するが、抗力Rは、仕事Aに、-Rdsの仕事として寄与し、仕事Cには+Rds/2の仕事として寄与する。仕事Cの(6)式を図示すると、

となり、図4は力Tと抗力Rの平均の強さの力で左右対称にバネを引いたときの仕事であり、重心の運動は現れず伸びに対する仕事Cであることがわかる。
図3において、バネの右端Sを無限にゆっくり、つまり、つり合いを保ちながら準静的引くと、重心運動は現れないので、その場合は図4と等価である。
それに対し、図3において有限な速さでバネの右端Sを引くと重心運動のエネルギーが増し、T>Rであるが、重心運動が減速し始めると、T<Rになり、一定の長さを引き終えたとき、重心の運動エネルギーは0になる。一方、バネの変形のエネルギーはバネの長さだけで決まるので、引き始めから引き終わるまで増え続ける。最初に現れ、途中から減少し、最終的には無くなる重心運動のエネルギーはバネの内部で熱エネルギーになって発生する。バネの場合の仕事の関係は、、
仕事の関係式Ⅳ: 仕事A+仕事C+内部摩擦の仕事=仕事B
になる。
有限な速さで引くとき、T>Rの前半では、左辺の第3項は0だが、T<Rとなる後半では第1項は負になり、第3項が現れる。そして左辺の三つの仕事の和は森全体にする仕事であり仕事Bである。
「木」の力学では、仕事の関係式はⅠやⅡであり、仕事Bだけで記述できるが、それを「林」や「森」の力学での仕事にそのまま拡張し、「抗力は仕事をしない」「仕事Bだけが唯一の仕事」との誤った考えが、力学の適用範囲が著しく狭め、イルージョンマジックまがいの奇説珍説を生み出す温床になっていると言わざるをえない。
おわりに
高校の力学では、主に重心運動だけだから、仕事Aと仕事Bは同じである。さらに回転運動や、バネの伸び運動の場合も、それが単独で現れる場合には、その仕事は仕事Bである。
「木」の力学では、「個」は「全体」に等しいので、木の種類によらず木の仕事はどれも仕事Bになる。しかし、木と木とが抗力の仕事で結びついている「林」や「森」の力学では、個々の仕事の和が、全体に対する仕事Bになる。しかし、その場合、仕事Bだけではエネルギー移動のしくみも、その配分の詳細もわからなくなる。抗力のする仕事は木の力学に現れることはないが、林や森の力学では木と木とが抗力の正負同時一対の仕事で結びついている。
抗力のする仕事を否定するために、高校教科書の仕事の定義を変更し、仕事を仕事Bだけに統一するという試みは受験対策には有効かも知れないが、力学の適用範囲が「木」の場合に制限され現実的ではない。抗力が仕事をする場合は、必ず正と負の一対の仕事をするので、不都合なことはない。
「教科書どうり」と言えば、消極的で現状維持の負のイメージが強いが、高校物理教科書は物理を学ぶための最初の道標である。それを無視し、仕事の定義を変更するのは、次世代の科学者を目指す高校生を、地図にない危険な獣道に引きずり込むことになろう。科学の歴史を振り返れば、試行錯誤は避けられない。ときには教科書にない発想をする勇気も必要だが、基礎の段階で、はじめから教科書の記述を否定して、力学の根幹に関わる仕事の定義を変更するのは危険であろう。
力学を、静力学と動力学に分類し、さらに動力学を、「木」と「林」と「森」に分類すれば、静力学や「木」の力学では、抗力は仕事をすることができないが、抗力の仕事を排除した力学は、林や森の力学に進めない。物理養育は、「教科書にない獣道」に足を踏み入れ、林や森の前で立ち往生して、さらに危険なpseudowork説に踏み込もうとしていないだろうか。
教科書の仕事の定義だけを「金科玉条のごとく」との非難を浴びせられてきたが、教科書の記述を単に擁護しているのではなく、教科書の仕事の定義を否定すれば、大学の力学へに繋がる道は閉ざされる。仕事Aを否定したままで、いくら大勢で「ひらけゴマ」と、呪文を唱えるだけでは道は開かない。この問題について、物理教科書執筆者、教科書検定委員を含め、多くの物理関係者の率直なご意見を拝聴したい。
釈迦に説法だとは思うが、釈迦にも経の読み違いはあろう。科学の歴史を振り返れば、試行錯誤は避けられない。間違うことは恥ではない。過ちては改めざること、これ過ちという。

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