抗力のする仕事の是非を巡る天下分け目の戦い

1.ことのおこり

 地面や壁などから受ける抗力や天井から吊るされた糸の張力のように、動かないモノから受ける力が仕事をすることは可か不可か(近角聡信:日常の物理事典)、力学の根幹を揺るがす昔から存在する問題に、物理教育関連学会では、作用点の動かない抗力が仕事をすれば、エネルギ-保存則に反するとして否定説一色。

 否定説のほうが、一見、正しいように思えるが、エネルギーを生み出すことだけが仕事ではない。運動から別の運動へエネルギーを伝えるためには、抗力のする仕事が必要になる。エネルギー保存則に反することなく、抗力のする仕事によって、運動間にエネルギーを伝達、配分するしくみを、いくら主張しても、取り付く島はなく、論文として掲載してもらえない。

 はらわたが煮えくり返る思いだが、ものは考え様、反対が多いほど論争はやりがいがあり、歴史を振り返れば、これまで幾度も厳しい論争を経て科学は発展してきた。しかし、時代によっては、異端の説を吹聴し、神を冒涜する大罪人として、火焙りの刑になるかも知れず、恐怖で震えが止まらず、クワバラクワバラだが、今は、どんな相手を敵に回しても、火炙りにされる心配はなく、論争できるのは、むしろ幸運である。

 周囲の迷惑も顧みず、学界に盾突き、論争を挑むのは、一見、向こう見ずのラ・マンチャの男と思われがちだが、筆者は、本当は、石橋を叩いても渡れない小心者であり、だから、抗力は仕事をしないとする物理学界の危険な考えにに反対するのである。どちらが正しいかは、人の数や論文の数だけでは決まらない。

 すでに完成した古典力学に誤りがあるとは、小心者の筆者には、とても考え及ばないことである。その適用範囲内の問題であれば、観測事実や経験事実は、なにより先に、ニュートンの運動法則に基づいた説明であるべきである.しかし、学界は、30年前の先行論文1)として、発表されているPseudowork説を理由に、問題は、すでに解決済みとし、すでに議論の余地はないと主張する。

 しかし、その先行論文(P論文)を読んで驚いた。最初から、高校物理教科書の記述にも運動法則にも反している。教科書は、生徒が物理を学ぶ道標であり、最初の岐路から道標を逆向きに変更しては、生徒も教師も道に迷う。それでも、学界は、P論文の真偽を検討することなく、それを鵜呑みにして抗力のする仕事にを否定し続けているとしか思えない。狐につままれたような話である。

 いくら多人数だと言っても、抗力のする仕事を否定している人々と一緒では、とても、そんな危ない橋は、端でも真ん中でも恐ろしくて渡れない。P論文は、最初から、力の作用点が動くか動かないかだけから、仕事の可否を、いとも簡単に決めている。しかし、運動法則は作用点の変位の有無で力を区別してはいない。

2.反逆の狼煙

 抗力は仕事をしないとする先行論文は正しいとして、抗力の仕事に反対している否定派は、論文の結論だけでなく、結論に至る過程も検討した上で、論文は正しいと判断したのだろうか。仲間の誰かが、充分検討したにちがいないという多数派ゆえの油断はなかっただろうか。仕事の問題に関して、物理教育学界は、「赤信号みんなで渡れば怖くない」のように、他人任せで、実は、誰も信号機を見ていないようである。

 しかも、否定派は、先行論文と仲間の数で、抗力のする仕事を肯定する異端分子を一掃できたとして、次は、高校物理教科書の記述も先行論文に反するとして、教科書の仕事の定義の変更を迫っているようだが、それを許せば、力学教育は破綻する。そのような事態は何としても阻止しなければならない2)

 査読者を含め学界の大勢を占める否定派は、その主張の根拠として引用している先行論文の重大な誤りに、気づいていない。それを指摘しても、難癖老人とのレッテルを貼られているのか、またかと厄介払いされるだけで、まともに相手にされない。

 論文審査の決定権も否定派に握られていれば、少数派は踏まれても蹴られても耐えるほかないが、否定派が高校教科書まで否定しようとしている今が反逆の狼煙を上げる絶好の機会。高校物理教科書は歴代の多くの物理関係者の手によって作り上げられているが、現在の執筆者や検定委員は、教科書の記述が否定派から槍玉にあげられているのに、無言を貫いている。彼らも否定派の主張に同調しているのだろうか。この際、彼らにも、一言、声をかけておこう。

   この指にとまりたいなら今のうち

 現状では、肯定派はまだ少数派だが、勝算は充分ある。この種の論争は、オセロゲームのように、一手で白黒反転する可能性を秘めている。逆賊、謀反人、何と呼ばれようとも構わない。この橋は、たとえ一人だけでも、渡らなければ道は開けない。

   時は今 天が下知る 五月哉。いざ出陣、敵は本能寺にあり。

 かくして、否定派vs肯定派の天下を二分する決戦の火蓋は切って落とされた。大河ドラマより、俄然、面白くなってきた。しかし、折角の論争も相手にも頑張ってもらわなければ困る。論争相手は、既に矢尽き刀折れの状態ではないかと心配になってきた。それとも、運動法則をも打ち破る強力な秘密兵器が残っているのだろうか。それならお手並み拝見としよう。

3.仕事の定義

 一切のモノが動かない静力学では、仕事をできない抗力も、抗力を受けたことで、モノ自体に何か変化があれば、抗力もそのモノに仕事をしたことにならないだろうか。しかし、学界の多数を占め、P論文を信奉し、抗力は一切仕事をしないと主張する否定派は、仕事は、力とその作用点の変位との内積であり、抗力などの作用点の動かない力が仕事をすることは、動力学においても、あり得ないという。

 しかし、一般に、力学での仕事は、仕事をする側に関する情報と仕事を受けた側の何がどう変化したかの情報で決まる。現に、高校物理教科書の力学の箇所では、仕事をする側の力のベクトルと、力を受けた物体の変位ベクトルとの内積として定義されている.物体の変位とは、物体の重心の変位であり、仕事を受ける側に関する情報である。教科書に定義されている仕事を仕事Aと呼ぶことにすると、岩波書店の広辞苑の記述も仕事Aである。仕事Aは、力が物体の重心運動にした仕事であり、その分だけ重心の力学的エネルギーは増すことになる。仕事の有無は力の作用点の変化の有無ではなく、力を受けた側の変化の有無で決まる。

 否定派によれば、仕事Aは「物体」を質点に限定した場合の初級者向けの仕事の定義であり、正しい仕事の定義は、力と力の作用点の変位との内積でなければならないという。しかし、定義に初級者向けや上級者向けの区別などない。高校の教科書には、質点とは何かについても記述されている。仕事Aでの「物体」とは、質点を含めた物体一般である。それは物理以前の国語力の問題だが、教科書の執筆者は、それも分からず、質点と書くべきところを間違えて物体と書いているのだろうか。

 否定派が主張する仕事を、仕事Bと呼ぶことにすると、仕事Bにおける「力」も「力の作用点の変位」も、どちらも仕事をする側の情報であり、定義に仕事を受ける側の情報が含まれていない。仕事Bも仕事であることには違いないが、それは力がした仕事の総量であり、仕事を受ける側の系や物体全体に対してした仕事である。仕事Aも仕事Bも質点の運動に対しては同じになるが、一般には異なる仕事である。さらに剛体の運動では回転運動に対する仕事も必要になる。

図1 固定軸のまわりの円盤の回転

 図1のように、円盤に巻きつけた糸を引っ張って円盤を固定軸のまわりに回転させるとき、円盤に働く力は、①作用点Sの動く外力T、②円盤の重心に働く重力、③固定軸から受ける抗力の三つの力だが、重心運動が存在しないので仕事Aは存在せず、回転運動だけが存在する。回転運動に対する仕事は仕事をする側の力Tによる力のモーメントと仕事をされる側の回転した角度の積として与えられる。この仕事を仕事A’と呼ぶことにしよう。仕事Aが存在しないので、②と③は仕事に寄与できないが、①だけが仕事A’に寄与できる。円盤の半径をrとすれば、右まわり力のモーメントの大きさはrT、回転した角度dθ=ds/rである。ここで、dsは作用点Sの変位である。回転運動にする仕事A’は力のモーメントと回転角の積としてTdsになり、図1のように、回転運動のみしか存在しない場合は仕事A’も仕事Bと同じになる。

図2 水平面を滑らず転がる円盤

 次に、図2のように、糸を巻き付けた円盤を水平面上を転がす場合のように、重心運動と回転運動が連動した複合運動について考えてみよう。運動は水平方向の重心運動と中心軸のまわりの回転運動とが水平面から受ける水平抗力Fで連動し、仕事Aと仕事A’の両方が存在し、TもFも両方の仕事に関わるが、Fは仕事Aには正の仕事として寄与し、仕事A’には同じだけの負の仕事として寄与するので、仕事Aと仕事A’との和である仕事Bには寄与できず、仕事Bに寄与できる力はTだけになり、その仕事はTと作用点Sの変位の積になる。図2の場合、Tは重心運動にも、回転運動にも仕事をするが、Fは、一端配分された仕事を、正と負の同時一対の仕事によって再配分している。

 仕事Bは仕事Aと仕事A’の和だから、仕事Bはエネルギー保存則を表している。抗力Fは重心運動と回転運動に符号の異なる仕事をするが、仕事Bには現れないので、仕事をしても、エネルギー保存則に反しない。エネルギー保存則は神が与え給うた法則ではなく、運動方程式から、導かれる法則である。

 教科書に定義されている仕事Aを否定すると、運動法則から、エネルギー保存則を導くことができなくなる。剛体の力学において、エネルギーの散逸がなければ、仕事Bは、二つの基本的な仕事、仕事Aと仕事A’の和として表されるので、仕事Bは別段必要でなくなる。

 車が道路を走るとき、その駆動輪は道路から進行方向に水平抗力を受けるが、、水平抗力は車の重心運動に仕事をするだけでなく、駆動輪の回転運動には逆向きの力になるので、駆動輪の回転運動に対して、その回転とは逆回りの力のモーメントとして働き、負の仕事をする。駆動輪の回転にエネルギーを与えているのはエンジンだが、そのエネルギーを車の重心運動に伝えているのは抗力の仕事であり、抗力は駆動輪の回転に負の仕事をし同時に重心運動に正の仕事をする。

4.Pseudowork説とイルージョンマジック

 物体の自由落下では、空気の抵抗を無視できれば、仕事A’=0だから、重心のまわり回転運動も、重心の落下運動も、それぞれが独立に、エネルギーの保存則が成り立つ。

 球や円柱が斜面を滑らずにころがり落ちる場合には、抗力は仕事Aにも仕事A’にも仕事Aにも寄与し、回転運動と重心運動とが抗力によって連動する。回転運動のエネルギーが増す分は重心運動から差し引かれる。抗力は回転運動に正の仕事をするとともに同時に重心運動に負の仕事をする。二つの運動のそれぞれについては、エネルギーは保存しないが、全体の運動であるころがり運動に対してはエネルギー保存則は成り立つ。 

 問題のP論文では、合力として抗力を含む力のする仕事を擬の仕事(Pseudowork)と呼んでいるが、どう呼ぶかは構わないが、抗力の仕事は重心運動に負の仕事として寄与しているだけでなく、回転運動に対しても正の仕事として寄与していることは、ころがり運動を表す連立方程式っからあきらかだが。P論文では抗力のする正と負一対の仕事の片方を完全に見落としている。

図3 斜面をころがる円柱

 図3は、P論文の図と同じだが、Fは、重心運動に負の仕事をし、右回りの回転運動に正の仕事をしていることは図からも明らかである。しかし、P論文では、運動方程式から始めず、重心運動に対する仕事とエネルギーと関係式(P論文ではCM式)とエネルギー保存則(同じくP論文ではWE式)から議論を進めているため、抗力Fだけが、CM式にだけ現れ、Fがする正の仕事が、WE式に隠れてしまい、表向きには抗力が重心運動のみに負の仕事をしているかのように見え、一見すると、エネルギー保存則に反しているかのように思えるだけである。

 擬の仕事説の正体は、イルージョンマジックのようなものであろう。イルージョンマジックの一つ、人体切断では、実際には、上半身役と下半身約の二人いるのだが、一人しかいないように見えるため、観衆が驚く。

 P論文では、マジックの仕掛けに、著者本人も、アメリカの物理教育学界も、それを諸手を挙げて受け入れた日本の物理教育学界も気づかず、本来、正統な仕事である仕事Aを、真の仕事でなく、苦し紛れに擬の仕事と名づけざるを得なくなっている。教科書執筆者にとっては、とんだとばっちりであろう。多くの物理関係者が30年間見抜けなかったpseudowork説は、マジックなら評価できても、物理としては単なる勘違いにすぎない。

 物理には、「擬」のつく用語として、擬ベクトルや擬スカラーが存在するが、どちらも空間反転によりどう変換されるかで、明確かつ簡潔に定義されている用語である。しかし、擬の仕事の存在を信じる物理教育関係者に、擬の仕事の定義を尋ねると、膨大な長さになるので、高校教科書には紙面の余裕がなく記述できないという。

 人や自転車や車の運動が、擬の仕事を適用しなければ説明できないとは異常事態である。エネルギーを創り出すのは人の筋力やエンジンだが、そのエネルギーを重心運動に伝えるのは、抗力のする正と負一対の仕事である。エネルギーを生み出すことだけが仕事ではなく、エネルギーを運動から別の運動に伝えるのも仕事である。仕事Bだけ分かっても、仕事Aや仕事A’が分からないなら、それは総額だけで内訳の記載のない、ぼったくり業者の請求書のようなものである。

5.キマイラ鼠と二刀流鼠

 大山鳴動し鼠一匹。30年前の騒動のときの鼠は、ギリシャ神話から抜け出してきた、この世の者とは、思えない現実離れしたキマイラ鼠であった。しかし、胴体切断されても、今日まで、その得意技Pseudoworkで生き延びてきたキマイラ鼠も年貢の納め時がきたようである。

 今回、話題の鼠は、二刀流を得意とする鼠だが、一刀流も二刀流もできるスーパースターではない。一刀流では全く役に立たず、抗力を二刀流として巧みに使いこなす鼠は、表舞台には現れないが、舞台裏で、正と負の仕事を同時にして、エネルギーを運動から別の運動に伝える二刀流鼠である。

 キマイラ鼠とは、縁もゆかりもない二刀流鼠は、運動法則から導かれる鼠であり、その技、正負同時一対の仕事は、キマイラ鼠が超能力よってするマジックまがいのPseudoworkとは全く異なる仕事である。しかし、国宝級の技を持ちながら、二刀流鼠は、不運にも現代の魔女狩りに遭い、岩盤規制のもと、30年間、囚われの身になっているという。まるで、モンテ・クリフト伯だが、聞けば聞くほど気の毒な話である。しかし、光は見えてきた。

 物理教育界が、抗力は、一切仕事をしないとする先入観から解放されたとき、岩盤規制の下から現れる二刀流鼠は、キマイラ鼠に引導を渡し、これまで、キマイラ鼠が超能力によって食い荒らしてきた日米の物理教育を一瞬にして正常な姿に修復し、物理教育の視界を一気に広げてくれるに違いない。

1) Bruce Sherwood:Am.J.Phys.Vol.51-7,(1983) p.597-602

2) 後藤信行:大学の物理教育31(2025)116

参考:「天下分け目の戦い」についてのAI(Gemini)の感想

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