最近、秋になっても、日中は真夏の暑さ。「暑さ寒さも彼岸まで」は、今ではもう昔話になったのだろうか。しかし、秋の夕刻は、日没後、辺りが急に暗くなることは昔と変わらない。「秋の日の釣瓶落とし」だが、小学生の頃、その理由が理解できなかった。

太陽は季節により、天空をどう動くのだろうか。地平線に沈むとき、夏は斜めに沈み、秋には垂直に沈むのだろうか。しかし、天球図を見ると、太陽が昇る場所や沈む場所は季節により変化するが、地平線から登る角度や沈む角度は季節で変化していない。日の出や日没を観測しても角度に季節変化はないように見える。それなら、なぜ、秋は釣瓶落としだろうか。中学生になりテニスを始めてやっとそれが理解できた。

地球は、天球図とは異なり、平面でなく球であり、傾いた地軸のまわりに自転している。地表にいる我々は地球の自転によって、一定の幅を持った昼と夜の境界線を、夏や冬は斜めに、秋や春は垂直に横切る。
井戸の釣瓶は、地球と釣瓶との間に働く万有引力の法則によって落ちるのだが、秋の夕日の釣瓶落としは地球の自転のためであり、釣瓶落としになるのは夕日ではなく、テニスコートと、そこでテニスをしている我々自身だったようである。さらに昼と夜を隔てる境界線の幅は季節により変化し、空気が澄む秋は太陽光の散乱が少ないのでその幅が狭くなることも一因になっている。
地球は球であり、自転しながら公転していることは、小学校でも習っていたが、地球の自転と一緒に自分も動いていることに気づかなかった。分かってしまえば簡単だが、少年の日の釣瓶落としの疑問は天動説で考えていたからのようである。ニュートンも偉大だが、ニュートンの運動法則以前に地動説を命がけで唱えた先人達も凄い。
年齢とともに肥満が進み、重力は体感できるが、地球の自転も公転も、日常の生活ではほとんど体感できない。しかし、秋の日の釣瓶落としは、外で仕事や運動をしていれば体感できる。中緯度に住み地動説を知らなかった昔の人々は、秋の日の釣瓶落としをどう考えていたのだろうか。秋は、釣瓶になぞらえた夕日に海水が溜まり重くなると考えていたのだろうか、科学史の面からも興味がある。
Jr.Dr育成塾で厩舎の仔馬君たちに教えていると、あの頃に戻り、当時の自分にも釣瓶落としが地動説で説明できることを教えたくなってきた。
秋の日の釣瓶落としの釣瓶とは 夕日に非ず
いまその夕日を見ている 黄昏世代の君や僕

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