自動車学校に行ったこともないくせに、車の運転をしたこともないくせに、机上の空論だけで、物理教育の従来の定説を非現実的な足のない幽霊説だと難癖をつけ、偉そうに地に足のついた力学教育をと主張する物理教育の新参者に怒りの鉄槌を下すまえに、ちょっとだけ、耳を貸して頂きたい。
小中学時代の理科授業の思い出
小学校の理科では「人が歩けるのは、足が地面から前向きの力を受けるからだよ」と習った。中学の理科では「土俵上で、力士が互いに相手と押し合う二つの力が、大きさは等しく、向きは逆向きになるのを、作用反作用の法則と言うんだよ。」と習った。さらに、「それでもどちらかが相手を押し出すことができるのは、体重の違いではないんだよ。」とも習った。
相手を土俵の外に押し出せるのは、相手より強い力で土俵を足で押せば、土俵から押し返される力も、相手が土俵から受ける力よりも強いからである。重力のない宇宙空間では、最初に宇宙飛行士の二人の共通重心が静止していれば、二人が押し合っても、引きあっても、共通重心は静止したままである。
車の走行と仕事
小学生の頃、田舎のオンボロバスが走っていたデコボコ道も、今では舗装され、ガソリン車だけでなく、ハイブリッドカーや電気自動車が、カーナビを搭載して走る時代になった。さらに、情報革命とともに、量子コンピュータ、光格子時計、AIがつくられ、科学技術は加速度的に進歩している。
時代が変われば、教育も変わるのは当然だが、人や車の運動に関する限り、昔も今も、ニュートン力学が適用できることに変わりはない。「車が走れるのは、道路から進行方向に力を受けるからだよ」と、現在の小学校や中学校の理科で教えても、高校や大学の物理で教えても正しいことに変わりはない。

駐車場の車は、重心に働く重力と、4つの車輪に地面から働く垂直抗力の和とがつり合い、停車している。しかし、走行中の車には、駆動輪の前輪には進行方向に、図1のように道路から水平抗力Fが働くので車は走ることができる。
走行中の車に働く進行方向の力は、駆動輪に働く水平抗力だけであり、車は、Fの力積により、運動量を得て、Fのする仕事によって並進運動のエネルギーを得ている。運動量とエネルギーの片方だけしか持たない並進運動は存在しない。
水平抗力Fは駆動輪が道路から受ける「静止」摩擦力であり、Fのする仕事は力学的エネルギーを生み出すことはできないが、Fは駆動輪の回転に対する負の仕事と並進運動に対する正の仕事を同時にすることによって駆動輪のエネルギーを並進運動に伝えている。
図1では、駆動輪が時計まわりに回転しているのに対し、前向きに働くFは駆動輪の回転に反時計回りの力のモーメントとして作用する。つまり、Fは駆動輪の回転には負の仕事、並進運動には、速度と同じ向きに働き正の仕事をしていることが分かる。
抗力は、二つの運動のそれぞれに正の仕事と負の仕事を同時にするので、エネルギーを生み出すことはないが、車のエンジンは駆動輪の回転運動だけに仕事をして、エネルギーを駆動輪の回転に補給している。抗力は、エンジンが生み出したエネルギーを、駆動輪の回転運動から並進運動に伝える役目をしている。駆動輪が地面から浮いた状態では、エネルギーの移動が断たれ、アクセルを踏んでも、駆動輪が回転するだけで、車の並進運動にエネルギーは伝わらない。
フットブレーキとエンジンブレーキ
走行中のガソリン車にブレーキをかけると、Fの向きは図1とは逆向きの後ろ向きに変わり、Fは並進運動に負の仕事をして車は停止する。フットブレーキでもエンジンブレーキでも、並進運動のエネルギーが熱となって消費されるので、車は減速するが、車のどこで熱になるかは両者で異なる。フットブレーキの場合、とくに急ブレーキでは、主に駆動輪と道路とのあいだのすべり摩擦によって熱として失われるが、エンジンブレーキの場合、水平抗力は静止摩擦力であり、滑らないので、並進運動のエネルギーは、道路と駆動輪の間では失われず、Fが並進運動と駆動輪の回転運動にする負と正の仕事によって、給油が断たれているエンジンに戻され、エンジン内部で徐々に熱として失われる。
電気自動車
エンジンの代わりにバッテリーとモーターを搭載した電気自動車では、道路から駆動輪に働く抗力Fは空気の抵抗がないとすれば、平坦地ではゼロだが、図2の左図のように下り坂では後ろ向き、右図のように上り坂では前向きに働く。

ガソリン車では、エンジンが仕事をして力学的エネルギーを生み出しているが、エンジンのない電気自動車では、エネルギーを生み出すための仕事は存在せず、仕事は力学的エネルギーを伝達するためにFのする仕事だけである。Fのする仕事と大学で習う電磁気学から、電気自動車では次のようにエネルギーが伝達されていることが理解できる。
車の位置エネルギーを①、車の並進運動のエネルギーを②、駆動輪の回転エネルギーを③、モーターの回転エネルギーを④、バッテリーの静電エネルギーを⑤とすれば、下り坂では、重力によってエネルギーは⓵から②になり、②はFのする仕事によって③になり、駆動輪はモータと連結されているので、④になり、モーターは発電機の役目をして発電した電気的エネルギーが⑤としてバッテリーに保存される。一方、上り坂では、逆に⑤→④→③→②→①の順で変換されるが、いずれも可逆的な返還であるから、下り坂でも上り坂でも、力学的エネルギーとバッテリーの静電エネルギーの和は一定である。
複合運動における抗力のする仕事
動かない壁を人が押しても、人は壁に仕事をすることはできない。しかし、そのとき人が壁から受ける反作用力は、人が動けばその運動に仕事をすることができる。ローラスケートの靴を履いて壁の前に立ち壁を押せば、壁は動かないが人は後ろに動く。
このとき、人の運動は両手を伸ばす運動と重心の運動である。壁がなければ簡単に腕を伸ばせるが、壁があれば壁から受ける反作用力が、腕を伸ばすことを妨げると同時に、重心運動に仕事をする。つまり、壁から受ける抗力は、腕の変形に負の仕事をして人の重心運動に正の仕事をする。車が道路から受ける水平抗力と同じである。道路や壁のように、動かないものから受ける抗力は力学的エネルギーを生み出さないので、抗力が仕事をすると考えてはならないとする誤った不文律が力学教育に定着して、日常の力学に混乱をもたらしている。
おわりに
ニュートンの運動法則は、力の作用点が動くか動かないかで力を区別していない。高校の物理教科書も、力学の章では、仕事を力と、力を受けた物体の変位との内積として定義している。力を物体に及ぼしているモノが動いているか動かないかには関係しない。
不文律が抗力のする仕事を禁じているために、なぜ、車が走れるか、なぜ、人は歩けるかという日常のありふれた力学現象を説明するのに、30年前にアメリカから海を渡ってやってきた、仕事のようで仕事でない、pseudowork1)なる仕事の幽霊のような存在に頼らざるを得なくなっている。
根拠のない不文律や仕事の幽霊を力学教育から一掃し、代わりに運動法則に基づいた「地に足のついた」力学教育を提唱したい。複合運動では運動間でのエネルギーの受け渡しに抗力のする仕事が必要不可欠である。 → バネ付き振り子の描くリサージュ図形とブランコ
1)Bruce Sherwood:Am.J.Phys.Vol.51-7,(1983) p.597-602
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