
図のように、傾斜角θの斜面を、質量M、半径α、中心軸の周りの慣性モーメントIの円柱が滑らずに転がるとき、斜面に垂直方向では、重力の成分と抗力の成分とが釣り合うので、その方向の運動は存在しない。斜面に沿って下方方向を、座標xの正方向に選ぶと、円柱は、重力のx成分と抗力のx成分Fとによって、斜面を転がり落ちる。これは、xの正方向への並進運動と重心のまわりの回転運動とが連動した複合運動である。二つの運動は、Fによって連動しているので、Fは並進と回転の二つの運動の両方に現れ、その運動方程式は、次のような連立運動方程式で表される。

(1-1)は円柱のx方向への並進運動に対する運動方程式であり、(1-2)は重心の周りの回転の運動方程式である。円柱は滑らずに転がるとすれば、v=αωでなければならないので、連立方程式の未知数はVとωのどちらかとFの二つである。I=Mα2/2として、連立方程式の解くと、加速度、角加速度、抗力Fは次のように表される。

これで、運動学(kinematics)としては完全に解けたことになるが、これだけでは抗力Fがころがり運動の動力学(dynamics)においてどのような役割をしているかが分からない。運動方程式から先に、Fを消去すると、Fが消えた式から、加速度も角加速度も決まり、Fの値は運動に無関係のように思えるからである。しかし、並進速度も回転の角速度もFに依存することは明白である。ここで、運動学から、一歩、踏み込んで、運動方程式を動力学的に解くと、Fの役割が明確になる。(1-1)の両辺に速度vを掛け時間で積分し、一方、(1-2)式の両辺には角速度ωをかけ、時間で積分すると、次の連立方程式が得られる。

ここで、dxはvdtであり、円柱の重心の変位であり、力の作用点の変位ではないことを強調しておこう。もともと運動方程式のどこを探しても、力の作用点の変位などは存在しない。(2-1)は並進運動のエネルギーがMv2/2と表すことができることを示すとともに、並進運動になされた仕事が、並進運動の運動エネルギーの増分に等しいことを示している。(2-2)は回転運動に対しても同様なことが成り立つことを示している。さらに、抗力Fのする仕事Fdxは、並進運動に負の仕事として寄与し、回転運動に正の仕事として寄与していることも示している。両式を加えれば、抗力Fのする仕事は消え、ころがり運動に対するエネルギー保存則が次のように導かれる。

連立運動方程式から、動力学的に仕事とエネルギーの連立方程式を導き、さらに、エネルギーの保存則(3)式を導く過程には重力の仕事によって得られた力学的エネルギーが運動にどのように配分されるかが手に取るように分かり、そこにはニュートン力学の美しさがある。しかし、今、抗力は作用点が動かないので、一切、仕事をしないとする、奇を衒った不条理な「ムラの掟」によって、かって魅了された力学理論の美しさが損なわれている。
抗力Fは斜面と円柱の間での静止摩擦力であり、その作用点が動かないが、Fが仕事をしても不都合なことは何も起こらないことは明らかである。しかし、40年まえにアメリカでは発表された論文Pseudowork and real work(Bruce Sherwood:Am.J.Phys.Vol.51-7,(1983) p.597-602)は、最初から、(2-1)と(3)を持ち出して比較し、(3)式の左辺がreal workであり、(2-1)式の左辺は抗力Fを含むので真の仕事ではなく、擬の仕事Pseudoworkだという。それなら同じ理由で(2-2)式も真の仕事ではなくなる。ところが、真の仕事でない二つの仕事を加え合わせた(3)式は真の仕事になるという矛盾に陥っている。(2-1)も(2-2)も、さらに両者を加えた(3)式も運動方程式から導かれた真の仕事である。本来、一対の仕事として考えるべき、(2-1)と(2-2)とを無理に引きはがし、その片方だけを(3)と繋ぎ合わせた結果、ギリシャ神話に登場する双頭の怪獣が創り出されている。ニュートン力学の完成から300年以上が経過した現在において、力学に仕事の化け物や仕事の幽霊などが入り込む余地はない。
抗力のする仕事は、日常の力学現象でも重要である。車のアクセルを踏めば、エンジンが仕事をするのは確かだが、エンジンが仕事をするのは駆動輪の回転運動に対してである。もし、道路から受ける抗力がなければ、アクセルをいくら踏んでも駆動輪が回転するだけで車は加速できない。エンジンの仕事によって回転する駆動輪に、道路から受ける抗力は駆動輪の回転運動に負の仕事をして、同時に車の並進運動に正の仕事をすることによつて、エンジンが生み出したエネルギーを並進運動に伝えている(参考)。自動車学校に行ったことがなく、当然運転免許を持たない筆者にも、その程度なら理解できる。しかし、車は仕事に似て仕事でないPseudoworkによって走ると言われても、劣等生ながらも、一応、大学で物理を学び、大学で物理の授業を担当した筆者だが、さっぱり理解できない。
高校物理教科書の記述に反し抗力は仕事をしないとした「ムラの掟」に悩んだ挙句、渡りに船とばかりに、海を渡って来た「泥船」に飛び乗る前に、抗力のする仕事を素直に認め、上記の円柱のころがり運動に関する演習問題を、ニュートン力学に基づいて運動学と動力学の両方で解いてみられることを是非お勧めしたい。泥船に乗っていたら今のうちに降りたがよい。ニュートン力学に反し、仕事であるのかないのか、一貫性がなく、常人には到底理解不能なPseudowork説は早晩必ず沈没しよう。
コメント