人間、一旦、思い込むと、ドグマから抜け出すのは、なかなか難しいようである。日本物理教育学会に難癖をつけている変人が、自分の墓を手造りしているという終活中の老人だと知れば、学会相手に無謀な論争を挑み自ら墓穴を掘っているのかと一笑に付し、条件反射的に老人の主張を退けたくなるのもよく解かるが、ここは一度踏み止まって内容を検討してみたらどうだろうか。ドグマに陥るのは老人や変人だけとは限らない。個人だけでなく社会も国家もドグマに陥る。日本の学会もアメリカの学会も例外ではない。論文の査読者も間違うことはある。
今回の論争の争点は、壁や道路から受ける抗力は仕事をするかしないか、その一点に絞られる。ニュートン力学は、抗力が仕事をすることを禁じてはいないと主張する老人に対し、物理教育学会は、抗力はその作用点が動かないので、一切仕事をしないと主張する。それだけの違いだが、力学教育にとっては重要な問題であり、地動説と天動説ほどの違いがある。抗力の作用点が動かないのは事実だが、ニュートンの運動法則は、作用点が動くか動かないかで、力を区別していない。力が仕事をするかしないかは、物体に力が働いたとき、力の作用点が動くか動かないかではなく、力を受けた物体の運動状態が変化するかしないかである。
高校物理のどの教科書にも力学の箇所での仕事の定義は、力と物体の変位との内積と明記されている。その定義に従えば、力の作用点が動かなくても、力を受けた物体が動けば、力は仕事をしたことになる。抗力のする仕事をどうしても認めたくないのか、学会の内部には、教科書の仕事の定義を変えるべきだという意見もあるようだが、定義は法則ではないが、法則に準拠した定義でなければ議論は混乱し、定義すること自体の意味がなくなる。ニュートン力学に誤りがない限り、運動法則に則して定義された教科書の記述を変更すれば、力学におけるエネルギーの伝達に関する議論は成り立たない。教科書のように、力と物体の変位との内積として定義された仕事を仕事Aと呼ぶことにしよう。
抗力は作用点が動かないので、仕事をしないとする物理教育学会の主張の唯一の根拠は、40年前にアメリカで発表された論文、Pseudowork and real work [Am.J.Phys.Vol.51(1983)]だけである。しかし、Pseudowork論文は、抗力は仕事をしないことを前提としているが、その前提が完全に誤っている。その論文は、作用点の動かない抗力が仕事をして力学的エネルギーに寄与すれば、エネルギー保存則が成り立たないとして、抗力を含む可能性のある仕事Aを、仕事に似て仕事でない、擬の仕事、つまり、Pseudoworkとしているが、抗力のする仕事を禁止すれば、複合運動におけるエネルギーの移動を説明できなくなり、力学の適用範囲が単一運動だけに限定されてしまう。
仕事Aに対し、熱力学での仕事のように、力と作用点の変位との内積として定義された仕事を仕事Bと呼ぶことにすると、仕事Aと仕事Bとは明確に区別されるべき仕事であり、高校の物理教科書でも、力学の箇所では仕事Aであるが、熱力学の箇所での仕事は、圧力と体積変化の積として定義されていて、それは仕事Bと同じである。抗力は仕事Bをすることはできないので、抗力が全エネルギーの増減に寄与することはないが、仕事Aに抗力が含まれているか否かに関わらず、仕事Aがなされた分だけ、物体の重心運動のエネルギーが増している。仕事Aは物体の重心運動に対する真の仕事でなければならない。熱力学では装置自体の並進運動を考えないので仕事Aは必要ないが、力学では仕事Aは必要不可欠である。
辞書類に定義されている仕事も、岩波書店発行の広辞苑では仕事Aであり、同じく岩波書店から発行されている理化学辞典では、熱力学や物性を念頭においた仕事Bである。岩波書店の二つの辞典にくらべ、発行年が比較的新しい培風館の物理学辞典では、物体の変位と力の作用点の変位とが行動され、その結果、仕事Aと仕事Bとが混同されている。その記述が明確ではないため、冗長な記述になっている。複合運動では、仕事Aと仕事Bとは明確に区別されなければならない。
複合運動では、仕事Aが必要なことについては、これまで、本ブログで何度も繰り返し述べてきたが、具体的な例を挙げれば、自転車に働く進行方向の外力は、道路面が後輪に及ぼす水平抗力だけである。人を含めた自転車の並進運動は、水平抗力の力積によって運動量を得て、水平抗力のする仕事によって運動エネルギーを得ている。運動量だけでエネルギーを持たない運動など存在しない。抗力の作用点は動かないが、水平抗力は後輪の回転運動に負の仕事をして、同時に人を含めた自転車の重心運動に正の仕事をしている。エネルギーを後輪の回転運動に供給しているのは人の筋力だが、後輪が道路から浮いた状態では、抗力が働かないので、人がいくらペダルを踏んでも後輪が回転するだけで、そのエネルギーが重心運動に伝わらず、自転車が走れないのは火を見るより明らかであろう。
複合運動のもう一つの例として大学初年次で学習する円柱が斜面を転がる運動を考えれば、斜面から受ける抗力が正と負の仕事をしていることを数式で明確に示すことができる。この問題を解くには、運動法則に基づき運動方程式を作り、あとは数学を用いて、それを解けばよい。このときの運動方程式は、斜面に沿っての円柱の並進運動と円柱の中心軸のまわりの回転運動とを記述する連立方程式で表される。重力は並進運動のみに寄与するが、円柱が斜面から受ける抗力は並進運動と回転運動の両方に現れる。あとは数学を用いて運動方程式を解けばよい。これもブログで何度も繰り返してきたことだから、詳細は省略して、図と数式を羅列すると次のようになる。




上記一連の式は、物理教育学会にとっては釈迦に説法だと思っていたが、そうでもなさそうなので簡単に説明しておくと、(1-1)は重心の運動方程式であり(1-2)は回転の運動方程式である。両者からなる連立方程式が円柱の転がり運動の運動方程式である。あとは運動方程式から数学的に導かれた結果である。抗力のする仕事に反対している日本物理教育学会に問いたい。(1-1)と(1-2)からなる運動方程式に間違いがあるのだろうか。それとも、運動方程式から導かれる(2-1)と(2-2)に数学的な間違いがあるのだろうか。ニュートンの著書「自然哲学の数学的諸原理」が発行されて300年以上が経過したが、力学的にも数学的にも正しくても、抗力が仕事をすると考えるのは誤概念だろうか。抗力の仕事を否定することは、ニュートン力学の適用範囲を単一運動のみに制限し、転がり運動のような複合運動へのニュートン力学の適用を否定することになる。
円柱の運動は並進運動と回転運動からなる複合運動であり、その運動は(1-1)と(1-2)からなる連立方程式で表される。それから導かれる(2-1)と(2-2)を見れば、円柱が斜面から受ける抗力Fは並進運動に負の仕事をして回転運動に正の仕事をすることは一目瞭然であり、両者を加えた(3)式は力学的エネルギーの保存則を表し、そこにFは現れないので、抗力が仕事をしてもエネルギー保存則には反しない。逆に抗力が仕事をしないとすれば、(2-1)と(2-2)の両方が否定され、円柱の回転運動はどのようにしてエネルギーを得るかを説明できなくなる。
数式に頼らず説明することは大切であるが、数式による検証を怠ると、直感だけでは、正しい場合もあるが間違う場合も多い。物理教育学会が、その主張の根拠としているPseudowork論文は、直感だけで抗力は仕事をしないという結論ありきの間違った例である。運動方程式から議論を始めることをせず、連立方程式の片方だけを引き離した(2-1)式と(3)式とを基本的な仕事とエネルギーの関係式として議論をはじめ、前者をPseudowork、後者をrealworkとして、力学的エネルギーに寄与しない、仕事に似て仕事でない、Pseudoworkが存在すると主張しているが、(3)式は、そのもとを辿れば、(1-1)と(1-2)から導かれた(2-1)と(2-2)を加えた式である。さらにPseudoworkと称する(2-1)は(1-1)から導かれた式である。
Pseudowork論文は、運動方程式から導かれた一連の数式のなかから、二つの数式、(2-1)と(3)を選び出して、継ぎ接ぎした結果、(2-1)と(2-2)からなる連立方程式に、さらに(2-1)をもう一つ付け加えたことになり、ギリシャ神話に登場するキマイラのような論理構造になっている。個々の数式は正しいが、その組み合わせに同じ式を重複して用いているため、仕事とエネルギーの式が一つ余るのは当然である。学生のレポートに、しばしば見られるように、コピペをしたため、個々の式は正しいが全体的な整合性のない支離滅裂な論文になっている。Pseudowork論文が難解なのは、それが高尚で深遠な理論だからではなく、コピペレポートと同じく、ニュートン力学に矛盾しているからである。
それにもかかわらず、これまで抗力の仕事に関する論文を何度投稿しても、物理教育学会は、先行研究であるpseudowork論文を正当に評価せよと宣うだけである。運動法則に明らかに反している論文を、どう評価したらよいか分からないが、敢えて評価するとすれば、まだ、インターネットの存在していない時代に、コピペの手法を駆使してつくられた論文のさきがけ、それ以上評価のしようがない。
それでもなお、物理教育学会は、Pseudowork論文を正当化するために、高校物理教科書に記述されている仕事は初心者向けの定義であるとか、物体と書かれているが質点にしか適用できないとか、仕事Bだけが唯一の仕事だとか、コピペ論文に忖度した苦し紛れの議論を繰り返すだけである。ドグマに陥り、悪あがきをしているとしか思えない。ニュートン力学から逸脱し、高校教科書の記述に難癖をつけているのは物理教育学会のほうであろう。従来の仕事の定義を変えてまで、なぜ、抗力のする仕事に反対するのか、理解に苦しむが、その根拠がPseudowork論文だけなら、物理教育学会は、道路わきの溝に落ちて脱輪しているのに気付かず、盛んにアクセルを踏み続ける車の運転手のようなものであろう。
抗力が仕事をする根拠をいくら列挙しても、物理教育学会はPseudoworkなる誤概念に固執し、それを唯一の盾にして抗力のする仕事に反対する。しかし、物理教育学会が金科玉条として掲げているPseudoworkは、もはや反面教師としての根拠のない誤概念の好例でしかない。運動法則から自然に導かれる抗力のする正負同時一対の仕事について、まともな議論をせず、破綻した誤概念を持ち出して反対し続けている物理教育学会は、ミイラ取りがミイラになっていないだろうか。
しかし、百歩譲って、ドグマに陥っているのが老人だということもありえよう。それなら、老人の主張に正面から反論すべきである。ただし、ニュートン力学に基づいた反論をしてほしい。今の状況から抜け出すには広く会員のなかで議論を深める他にない。そんなとき、学会の理事会は物理教育のメーリングリストを廃止するという問答無用の暴挙に出た。耳目を閉ざした閉鎖社会は短絡的思考しかできなくなる。議論することなしに異端を排除しては、学会内の平和を維持できても学会の発展は望めない。
重心運動だけしか存在しない場合、あるいは固定軸のまわりの回転運動だけしか存在しない場合のように、単一運動のみを扱う高校の力学では、仕事Aと仕事Bは等しくなり抗力のする仕事も登場しない。しかし、日常の力学現象では複合運動が圧倒的に多い。車や自転車だけでなく、人が道路を歩くのも、こどもが公園の遊具で遊ぶのも、カンダタやジャックが蜘蛛の糸や豆の木を登るのも、柳の枝に跳びつく教訓蛙も複合運動であり、抗力のする仕事を否定しては、重心運動がどのようにしてエネルギーを獲得するかを説明できない。高校教科書の仕事の定義を変更しては力学は、さまざまな日常の力学現象を説明できなくなる。
抗力の仕事の問題に対する学会のこれまでの対応は極めて異常である。コピペが産み落としたアメリカ発の双頭の妖怪に心酔しているのか、何度投稿してもまともに反論せず、「Pseudowork」を連呼しながら論文を返却してくるだけである。まるで狐につままれたような話である。物理教育学会は、この問題に関する限り、40年前のコピペ論文に洗脳され、思考停止に陥っているとしか思えない。会員の一人として、日本物理教育学会が、いつか正常な判断力を取り戻すことを期待して、認知症になるまえに、敢えて厳しく物申しておきたい。
論文の掲載を拒否されていることに難癖をつけているのではない。論文投稿を通して7年間に亘って抗力のする仕事を主張してきたが、査読結果は、いずれもニュートン力学に基づく議論がなされていない。既に破綻した学説を持ち出し抗力の仕事に反対するのは、天動説を持ち出して地動説に反対するに等しい。抗力が仕事をするかしないか、単一運動のみを扱う限り、どちらでもよいが、複合運動を含めた力学では、天と地ほどの違いがあろう。ニュートン力学を差し置き、コピペ論文を判断の基準にするなら、力学教育は無法地帯になる。すべてがPseudoworkありきで始まっているため、肝心の運動法則が忘れられている。中世の暗黒時代とは異なり、現代には、ニュートン力学が存在していることを忘れてはならない。
抗力が仕事をすることができる! 確かにそれは、一見、奇抜に思えるが、ニュートン力学に照らしてみれば、極々、当たり前のことではないだろうか。コピペ論文に幻惑され、抗力の仕事を否定するなら、究極的にはニュートン力学に難癖をつけることと同じである。日本物理教育学会が開かれた学術団体であることを信じて、学会全体がPseudoworkの悪夢から一日も早く目を覚すことを期待したい。完璧な人間などいない。誰しも間違うことはある。間違う事は恥ずかしいことではない。科学は、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し、その苦悩のなかから突如ブレイクスルーして発展してきたことは歴史が示す通りである。科学の進歩の過程に過ちは避けられない。抗力の仕事を認めたとき、物理教育にコペルニクス展開が起きよう。しかし、それは40年前のPseudowork説以前に戻るだけである。そのとき、力学に紛れ込んでいたキマイラが駆逐され、力学が本来の姿に戻り、難癖老人も、ごく普通の老人に戻るだけである。物理教育学会には、この問題に対してニュートン力学に基づいた議論をして頂きたい、老人の主張は、ただそれだけである。
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