最近のニュースだが、県議会議員が列車の中で、場所をわきまえず懸垂をしたとして、謝罪会見をしていた。本人も全く覚えていないとのことだが、一体何が起きたのだろうか。何かとてつもなく難しい問題を考えていて、突然ひらめき、それを実証したくて矢も楯もたまらず、無意識のうちにその場で懸垂をした! 想像の域をでないが、傍目には異様な行動もそれなら納得できる。懸垂の力学は簡単そうでも実は難しく、古くから物理教育関係者を悩ませてきた難問の一つである。え?同じ長崎! もしかしたら、筆者のブログの数少ない読者の一人だったのだろうか。
さて、図1のように、質量Mの人が腕を曲げて懸垂するとき、その重心は上昇する。このとき、人に働く外力は重力Mgと鉄棒から受ける上向きの抗力Fだけである。重心の上向きの加速度をαとすると、重心運動に対する運動方程式は
となり、重心運動に仕事をするのは、上向きに働く抗力F以外に考えられない。7年前、筆者は、懸垂での重心運動が(1)式で表されるため、重心運動に仕事をしたのは、腕の筋力ではなく、鉄棒から受ける抗力Fだと恐る恐る日本物理学会誌の談話室に投稿した。しかし、恐れていたのは抗力のする仕事を否定されることではなく、抗力のする仕事は力学では当たり前のことだとして、今更そんなことは当然という理由で掲載を拒否されることであった。最初のうち、何度投稿しても掲載を拒否されたが、その理由は意外にも筆者の恐れとは逆の理由であった。
①抗力は作用点が動かないので仕事をしない ②抗力が仕事をするなら懸垂をしても人は疲れないではないか ③エネルギー保存則を知っているのか ④初等力学さえも理解していないのか
と言わんばかりである。それでも、すったもんだの末、掲載された(日本物理学会誌、2016年2月号談話室)。しかし、掲載後も同様な非難は絶えなかった。抗力の作用点が動かないのは明白だから、一見もっともな非難のように思えるが、そのような理由での批判なら既に想定内であり、一千万人と雖も我往かんである。(1)式は、懸垂における重心運動に対する運動方程式であるが、懸垂運動そのものに対する運動方程式ではない。懸垂運動には、(1)式で表される重心運動のほかに、数式で表すことのできない腕の変形運動と、その変形運動に筋力と抗力とがする仕事が隠れているからである。
図1に腕の付け根に抗力Fと同じ大きさの互いに上下逆向きの二つの力、F1とF2を加えた図2を考えてみよう。
一対の力F1とF2を加えても、両者は打ち消しあうので、運動はもとの図1の運動と変わりはない。さらに図2の運動を二つの運動に分解しよう。懸垂運動=腕の変形運動+重心運動であるから、それを図で表せば図3のように二つの運動の和となる。
図3の左図において、人が腕をその筋力によって縮めようとすると、FとF2とは逆に腕を引き伸ばそうとする。つまり、FはF2と一緒になって腕を縮めようとする腕の変形運動に負の仕事をする。一方、右図では腕の付け根に働くF1が重心運動に正の仕事をする。抗力Fは左図のように腕の変形運動に負の仕事をすることによって、重心運動に対しては右図のようにその作用点が腕の付け根に移動したとことを示している。腕の付け根の変位と重心の変位とは同じであるから、さらに作用点を重心に移動させることもできる。
力学的エネルギーを創り出したのは筋力だが、筋力が直接仕事をすることができるのは図3の左図のように、腕の変形運動に対してである。そのとき、抗力は左図で変形運動に負の仕事をして、同時に右図では、腕の付け根に働く力F1として重心運動に正の仕事をする。筋力の仕事が生み出した力学的エネルギーを抗力が負と正の仕事をすることによって重心運動に伝えている。重心運動に仕事をするのは、40年前にアメリカで発表された、得体の知れないPseudoworkなどではない。
作用点の動かない抗力が仕事をする!これで力学の歴史が変わる? いやいや、そんな大げさなことではない。ニュートンの運動法則を日常のありふれた現象にも素直に適用すればよいだけのことである。しかし、先入観に囚われ、迷路に入り込むと、それから脱出するのが困難になる。だが、その場合にもニュートン力学の道標に従えばよい。迷路から脱出し、抗力のする正負同時一対の仕事に辿り着いたとき、それまで隠れていた自然界の新たな景色が見えてこよう。
マジックは見える所だけを見れば不思議だが、見えない所に種や仕掛けが隠されていて、それを見破るのは難しいが、難しいほどそのマジックは面白い。陸上選手がダッシュするときも蛙が柳の枝に向かってジャンプするときも、地面から受ける抗力が人や蛙の重心運動に仕事をするが、それだけ見れば、抗力のする仕事はエネルギー保存則に反し、不思議に思える。しかし、自然界のマジシャンが準備している黒い布の裏側に隠れているのはPseudoworkなどの妖怪ではない。そこに隠れているのは、抗力がするもう一つの仕事、つまり、人や蛙の変形運動に抗力のする負の仕事である。
話を冒頭の列車内での懸垂に戻すと、力学理論の検証なら、懸垂よりもスクワットのほうがよかったろうに。懸垂とスクワットは力学的に同等だが、スクワットなら、座席に座った状態から立ち上がるだけだから、他の乗客もしていることであり、目立つこともなく、誰にも文句をいわれないだろう。筆者もバスから降りるときスクワットをしているが、最近、テニスする時間が減り、足腰が衰え、つい、前の座席を掴んでしまう。スクワットと懸垂を同時にしている。「お降りの際は危険ですからバスが止まってからお立ち下さい。」ワンマンバスの運転手さんの声が聞こえてきた。止まったようだ。では、よいしょ、おっとっと!
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