単一運動と複合運動の仕事

 物体の並進運動の運動方程式は「力=運動量の時間微分」であり、力が並進運動にする仕事は、運動方程式から、「仕事=力と物体の変位との内積」でなければならない。この仕事を仕事Aと呼ぶことにすると、高校物理教科書、岩波書店の広辞苑、世界ブルタニカ百科事典に記述されている仕事も仕事Aである。物体が回転や変形を伴っていても、並進運動に対する仕事は仕事Aであり、さらに物体の位置は重心の位置で表されるので、「力と重心の変位との内積」である。

 次に物体の回転運動について考えてみよう。回転の運動方程式は「力のモーメント=角運動量の時間微分」であり、その仕事は運動方程式から「力のモーメントと回転角の変化との積」でなければならない。回転運動に対する仕事は高校教科書には記述されていないが、運動方程式に則した仕事という点で仕事Aと同類であるから仕事A’と呼ぶことにしよう。

 仕事Aや仕事A’に対し、広辞苑と同じく岩波書店から出版されている理化学辞典では、仕事は力と作用点の変位との内積として定義されている。この仕事を仕事Bと呼ぶことにしよう。仕事Bは仕事Aや仕事A’とどのような関係にあるだろうか。

図1 固定軸のまわりの回転

 図1のように、中心軸を固定軸として、そのまわりに自由に回転できる半径α、慣性モーメントIの円柱形の糸車の糸の端S点(力の作用点)を力Tで引っ張り、円柱を回転させたとき、運動は回転のみの単一運動となる。そのときの運動方程式は、次のように表される。

 (1)式の左辺は固定軸のまわりの力のモーメントであり、右辺は固定軸のまわりの角運動量(Iω)の時間微分である。微小時間dtでの回転角の変化dθは、dθ=ωdtであるから、これをを(1)式の両辺にかければ、      

が導かれる。(2)の左辺は力のモーメントと回転角の変化の積であるから仕事A’であり、右辺は回転エネルギーの増し分であることが数学的に導かれる。しかし、左辺をよく見ると、vはv=αωであり、図1の作用点Sの速度に等しくなるから、vdtは、Tの作用点の変位である。回転運動に対する仕事は、本来は仕事A’でであるが、図1のように、運動が回転運動のみの単一運動に対しては仕事A’と仕事Bとが等しくなる。

 しかし、次の図2のように、図1の円柱を固定軸から外して、水平な台上を滑らないように転がす場合、並進運動と回転運動とが互いに影響を及ぼし合いながら運動する。並進運動と回転運動とからなる複合運動では図1のような単一運動とは事情が異なる。 

図2 円柱の転がり運動

 転がり運動の運動方程式は次のように、並進運動(3)と回転運動(4)の二つの運動方程式からなる連立方程式で表される。

ここで、(3)式右辺のvは重心運動の速度である。力Tの作用点Sの速度は、重心速度の2倍になり、2vとなる。(3)に重心の変位vdtをかけ、(4)に回転角の変位ωdtをかけると、それぞれ、次のように導かれる。

(5)式は、その左辺は仕事Aであり、仕事Aが並進運動のエネルギーの増分に等しいことを示している。同様に(6)式は仕事A’が回転のエネルギーの増分に等しいことを表している。両式から、力Tは重心運動と回転運動の両方に、同じだけの仕事Tvdtだけの仕事をするが、円柱の場合、回転モーメントがI=Mα2/2であるから、(5)式と(6)式の右辺の比は2:1でなければならない。抗力Fは、このエネルギー比を満たすように重心運動に正の仕事をし回転運動に負の仕事をしている。(5)と(6)を加えると、

となる。(7)式の左辺は、Tとその作用点Sの変位2vdtの積であるから仕事Bである。(7)式は(5)と(6)から導かれるが、(7)式の左辺のみを唯一の仕事だとして、抗力のする仕事が現れる(5)式や(6)式を否定するなら、相対論でいう「親殺しのパラドックス」のように、エネルギー保存則を表す(7)式自体も否定されることになる。

 日頃、質点の運動や、質点に準じて重心運動だけをする物体や、回転運動も固定軸のまわりの回転のように単一の運動だけを扱っていると、つい、力学での仕事も、理化学辞典の仕事だけで統一できるかのような錯覚に陥り、抗力は作用点が動かないので仕事をしないと思い込みがちだが、複合運動での抗力のする仕事を否定しては、運動間のエネルギー移動の詳細が分からず、ドンブリ勘定の力学になる。

 理化学辞典に記述されている仕事Bは、系外から系内に流入する力学的エネルギーを表し、熱力学第一法則と第二法則を基本原理とする熱力学での仕事である。それに対し、運動法則を基本原理とする力学での仕事は、並進運動に対しては、仕事Aであり、回転運動に対しては、仕事A’である。熱力学と力学での仕事を混同しては、高校や大学初年次の力学教育が混乱するだけである。 

 その兆候は、発行されたのが2007年と比較的新しい培風館の物理学辞典(三訂版)にも見られる。物体一般に対する仕事と質点に対する仕事が記述されているが、抗力は作用点が動かないため仕事をしないとする論文:Pseudowork and real work [Am.J.Phys.Vol.51(7),July1983 p.597-602]に配慮してか忖度?してか、物体の変位と作用点の変位とが同義語であるかのような記述がなされ、仕事Aと仕事Bのどちらにも読み取れる玉虫色の記述になっている。しかし、Pseudoworkの考えは数学的にも力学的にもすでに破綻している(→懸垂の力学)。

 仕事Aや仕事A’は一般には仕事Bとは異なるが、図1のような単一運動の場合にのみ、仕事Bに等しくなる。図2の転がり運動は並進運動と回転運動とが抗力で結び付いた複合運動である。それぞれの運動に対する仕事Aと仕事A’を加えた結果、複合運動全体にする仕事は仕事Bとなる。図1のような単一運動は、運動のごく一部に限られる。日常に経験する力学現象では、ブランコや自転車や生き物の運動のように、重心運動、回転運動、変形運動など、複数の運動からなる複合運動であり、かつ動力源が系内に存在する。圧倒的多数存在する複合運動における運動間のエネルギー移動に目をつぶり、仕事Bだけが唯一の仕事だとするなら、力学はほとんど役に立たない学問になろう。

 物事を定義するのは他と明確に区別して混乱を避けるためである。物体と書かれているのに、それを質点と解釈しなければならないなら、逆に混乱を助長するだけであり、定義する意味はない。高校物理教科書は改訂に改定を重ね、執筆者だけでなく検定委員まで含めれば、そのたびごとに現在だけでなく過去の多くの物理関係者が関わってでき上ったものである。出版元に関係なく、おしなべて高校物理教科書が、力学以前の初歩的な間違いをしているとは考え難い。これまで高校物理教科書作成の関わられた物理関係者のご意見をお聞きしたい。

 →懸垂の力学

 

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