いきなり、そう問われたら、筆者も、つい、うっかりし、次のように答えてしまうかも知れない。
たとえ太陽が西から昇ろうとも
束縛力が仕事をすることはない
束縛力とは、床からの抗力のように作用点が動かない力のことだから、それが仕事をしないのは、一見、自明の理であり、議論の余地はないように思える。しかし、よくよく考えてみると、そうとも断言できない。まず、仕事とは何か、その定義から考えてみよう。
岩波書店の広辞苑は仕事を次のように定義している。
力が働いて物体が移動した時に、
物体の移動した向きの力と移動した距離との積を仕事という
高校や大学の物理教科書も、これに倣って仕事を定義している。ここで移動した距離とは物体の重心の移動した距離であろう。つまり、広辞苑や物理教科書の仕事の定義は、
仕事=力・物体の重心の変位
である。広辞苑の定義を定義Aと呼ぶことにしよう。一方、広辞苑の定義に対して、同じく岩波書店の理化学辞典には、仕事は次のように定義されている。
力学系に力Fが作用し作用点がdr変位するとき、
スカラー積F・drを、その力が力学系にした仕事という
つまり、理化学辞典では
仕事=力・力の作用点の変位
と定義されている。これを定義Bと呼ぶことにしよう。
もし、物体が質点の場合は重心の変位と作用点の変位は等しくなるので、定義Bが一般的な仕事の定義であり、定義Aは物体が質点の場合のみに正しいと考えがちだが、高校や大学の教科書は必ずしも質点のみを扱ってはいない。さらに広辞苑も教科書も質点とは何かを明確に定義している。質点という用語を使えないので、敢えて物体と表記しているのではない。定義Aは、対象を質点に限定したときの定義ではなく、物体一般について、外力が、その重心運動に対してする仕事の定義である。
車のアクセルを踏んで、車のなかの人や荷物を含めた、車全体の重心の運動エネルギーが増すとき、車に働く進行方向の外力は、駆動輪が道路から受ける摩擦力をおいて他にない。摩擦力も束縛力であるが、摩擦力がなければ、その力積によって車は運動量を得ることも、仕事によって並進運動のエネルギーも得ることもできない。車の重心運動に仕事をするのは摩擦力以外にあり得ない。
一方、車のエンジンのシリンダー内の気体がピストンにする仕事は、気体の圧力と体積増加の積であり、これは気体がピストンを押す力とピストンの変位との積であるから、理化学辞典の定義、すなわち、定義Bである。しかし、内力は駆動輪の回転運動には仕事をするが、内力は系の重心の運動方程式には現れないので、重心運動に仕事をすることができない。実際、駆動輪が道路から浮いた状態では、いくらアクセルを踏んでも駆動輪は回転するが、車の重心は動かない。エネルギーの供給源はエンジンだが、重心運動に仕事をしたのは摩擦力である。
その場合、道路からの摩擦力は正負一対の仕事をしていると考えることができる。車が加速する場合、摩擦力は車の重心運動に対しては正の仕事をするが、駆動輪の回転運動には、逆回りのトルクとして働き負の仕事をしている。束縛力は一切仕事をしないとすると、エンジンが作りだした力学的エネルギーを重心運動に送り込むことができない。束縛力は仕事をしないのではなく、正味の仕事はしないと考えるべきである。
熱力学のように、系の重心運動を考慮しない場合には、定義Aは不要だが、車の発進や、人が立ち上がるような場合には、定義Aによる仕事Aと定義Bによる仕事Bの両方の仕事が必要となる。定義Aと定義Bとは互いに独立した仕事の定義であり、仕事Bは力学的エネルギーを生み出すために、仕事Aはそのエネルギーを用いて重心運動に仕事をするために必要である。
芥川龍之介の小説に端を発し、実験では判定できない、この問題に決着をつけるのは論理の合理性だけである。筋力説か、張力説か、車に置き換えれば、エンジン説か、摩擦力説か、仕事に関してどちらがより合理的であるか、その判断は読者にお任せするほかないようである。
コメント