待ちぼうけ 待ちぼうけ ある日せっせと 野良かせぎ そこへ兎が飛んで出て ころり ころげた 木のねっこ 待ちぼうけ 待ちぼうけ しめた これから寝て待とか 待てば獲ものは 駆けて来る 兎ぶつかれ 木のねっこ
北原白秋作詞、山田耕作作曲の「待ちぼうけ」ですが、この童謡は韓非子の次の寓話がその題材となっています。
「宋の国で田を耕して暮らしていた男が、偶然、田のなかの切り株につまずいた兎を捕まえた。思いがけぬご馳走にありつき、一度味をしめた男は、その後、農具を捨てて働かず、来る日も来る日も切り株の傍で兎を待ち続けたが、つまずく兎は二度と現れず、男は宋国中の笑い者になったとさ。」
これから「守株待兎(しゅしゅたいと)」ということわざが生まれましたが、ニュートリノ実験装置スーパーカミオカンデでの観測も、切り株につまずく兎を待って捕えるようなものかも知れません。寓話の主人公と同じく確率が限りなくゼロに近い事象を観測しようと、全国から岐阜県飛騨市の神岡鉱山跡に集まった研究者達はいずれ劣らぬ愚か者ぞろいでしょうか。
いえいえ、限りなくゼロに近くても試行回数が多ければ、偶然が必然となります。兎や切り株の数が増えても、大多数の兎は切り株の間をうまく走り抜けるでしょう。しかし、全体のうち、僅かの兎が、切り株のどれかにつまずいてくれれば、確実にその兎を捕えることができるからです。
兎に相当するニュートリノは極めて小さな素粒子です。さらにニュートリノは電荷を持たないため、物質とごくまれにしか相互作用せず、我々の体も地球さえも、痕跡を残さず、スルスルとすり抜けてしまうので、極めて観測するのが難しい素粒子です。
しかし、地球には膨大な数のニュートリノが宇宙から飛来してきます。太陽や星の中心部で起きている核融合反応は、熱や光とともに、大量のニュートリノをつくり、それを放出しているからです。太陽から地上に飛来するニュートリノは1平方センチメートル当たり毎秒、660憶個という莫大な数になります。
スーパーカミオカンデでは、鉱山跡の地下に50,000トンの超純水を入れたプールを作り、飛来するニュートリノを待ち受け、プールの壁面には13,000個の光電子増倍管を設置し、ニュートリノが切り株に相当する水分子につまずいたときに起こるチェレンコフ放射を見張っています。
水の分子量は18ですから、50,000トンの水は(5/18)×モルとなり、その分子数は1.7×個になります。スーパーカミオカンデは、ニュートリノをつまずかせるために、個という莫大な数の切り株を準備していることになりますが、この個数には別の意味もあります。それについては人の寿命と原子の寿命のページを参照してください。
さて、真空中の光速とほぼ同じ速さで装置に入射した大量のニュートリノは、そのほとんどが水と相互作用することなく、装置をすり抜けていきますが、水分子にたまたま衝突したごく少数のニュートリノは、水分子から荷電粒子を叩き出します。
相対論によれば、物質は真空中の光速を超えて移動することはできません。しかし、水の屈折率は1.33だから、水中での光速は真空中の光速の75%にまで低下するので、水中ではニュートリノに叩き出された荷電粒子の速さが光速を超えることが充分可能となります。水中を光速を超えて走る荷電粒子はチェレンコフ放射による光を放出します。それを光電子増倍管で感知するというしくみです。
チェレンコフ放射とは、空気中の音に譬えれば、空気中を超音速で動く物体が発する衝撃波のようなものですが、荷電粒子の周りに円錐状に放射されるので、その光を解析することにより、荷電粒子の方向とニュートリノが飛んできた方向がわかります。
スーパーカミオカンデの前身のカミオカンデは、1987年、16万光年の彼方の星で起きた超新星爆発の際のニュートリノを観測しました。このとき、カミオカンデは地球の裏側から地球を通り抜けてきた大量のニュートリノのうち、11個を捕えています。その功績により、小柴昌俊さんがノーベル物理学賞を受賞しました。
天体観測の手段としては、ガリレイに始まる望遠鏡による光学的観測に、その後の電波やX線による観測が加わりますが、人類は、さらに、星が発するニュートリノによる新たな観測手段を手に入れたのです。
数年前、長崎での小柴さんの講演を聞きました。穏やかな風貌からはとうてい想像できませんが、何事にも物怖じしないその決断力と行動力には感服します。朝ドラの「あさが来た」の五代サマの言葉を借用すれば、まさにニュートリノ実験物理学におけるFirst Penguinです。
その後、カミオカンデを改良して作られたスーパーカミオカンデによって、ニュートリノ振動、さらに、そのことからニュートリノに質量があることなど、次々と新しい発見がありました。ニュートリノには3種類がありますが、これらは粒子であるとともに波でもあります。波であるからには振動数がありますが、3種のニュートリノに対応する波はいずれも固有振動ではなく、僅かに異なる振動数を持つ三つの固有振動が重なった波です。
1965年に出版された朝永振一郎著「量子力学的世界像」の表紙には「波子」と「粒雄」の相合傘の絵が描かれています。そして、本の表紙を開くと、冒頭から、波乃光子なる被告に対する奇妙な裁判「光子の裁判」が開廷されます。裁判が進行していくと、被告、波乃光子には重大な秘密があり、互いに、性格が全く異なる二つの顔を持っていたことが分かります。
表紙に著者が描いた相合傘も、それを暗示していたのでしょうか、傘の中にいるのは、実は一人だけで、粒雄と波子は同一人物の二つの顔だったようです。この本の出版から半世紀が過ぎましたが、今回発見されたニュートリノ振動は、一見、「粒雄」に見えるニュートリノが持つ「波子」の性格が端的に現れた現象です。“空間に局在した粒子”と“空間に広がった波動”という矛盾する二つの顔を持つのは、光や電子だけでなく、ニュートリノもその例外ではなかったのです。
ニュートリノ振動を発見した功績により、梶田隆章さんが2015年度のノーベル物理学賞を受賞しました。スーパーカミオカンデは、今や、ニュートリノ研究では世界をリードし、ニュートリノ天文学の最前線基地でもあります。
関連する他のページ:人の寿命と原子の寿命
追悼:つい、先日、2020年11月12日、小柴昌俊東京大学特別栄誉教授が亡くなられました。梶田さんがノーベル賞を受賞されたとき、このエッセイを書き、数年が経ちましたが、史上初めてニュートリノを観測し、ニュートリノ天文学を開拓された小柴さんの偉業を、今一度、改めて振り返るとともに、ご冥福を心よりお祈りしたいと思います。
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この記事を書いて2週間後に、新しい発見のニュースが世界を駆け巡りました。次は重力波の解説記事を書かなければ!忙しいことです。