メダカの学校は川の中

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 長崎は坂の多い街だが、大学への通勤路にも、途中に長い坂があり、一時、そこを自転車で通勤していたことがあった。往きは峠の我家から坂をくだり降りれば、大学はもう目の前、ところが帰りは大変、疲れた体でペダルを踏み、夜の坂道を登らなければならない。それなら、帰りはコースを変え、裏道を帰ればどうだろうか。 しかし、どのようなコースを選んでも、やはり、帰りはペダルを、一所懸命、踏まなければ我家には帰りつかない。結局、運動不足の解消のためにと、新しく自転車を買って思い立った通勤であったが、僅か一週間ほどで、もとのバス通勤に戻ることになった。往きが楽なら、その分、帰りは辛いのは当然のことのようにも思えるが、川のなかのメダカの通学路ではどうだろうか。

メダカの通学路
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 最近では、小川にメダカを見かけることが少なくなったが、いつも一定の速さで流れる川の上流に、一匹のメダカが棲んでいて、川下の学校に泳いで通学しているとしよう。普通のメダカには、流れを遡る習性があるが、楽をすることしか考えない一風変わったこのメダカは、家と学校の往復に、どのような通学コースを選ぶだろうか。

 川の流れは摩擦のため、川底や岸に近くなるほど遅くなる。往きは流れの速い水面近くを泳げば、楽なうえに早く着く。しかし、帰りも同じコースを選ぶと、多大な労力を必要とするので、帰りは流れの遅い川底や岸を選ぶに違いない。メダカの学校の通学路には、往きが楽であっても、帰りにも比較的楽なコースが存在していたのである。その点は重力場の通勤路との大きな違いである。

 ある範囲のなかのいたるところで、ある物理量の値が決まっているとき、そこをその物理量の場とよぶ。例えば、その物理量が温度であれば、そこには温度というスカラー場が存在することになる。地上や地球の周囲では、どこの場所でも、そこに置かれた物体は地球の重力を受ける。重力は力であり、大きさだけでなく、方向と向きを持った量、つまり、ベクトル量であるので、その一帯には重力場というベクトル場が存在していることになる。地球から遠く離れたところでも、今度は月や太陽や惑星、さらに他の恒星や銀河からも重力を受ける。重力場は宇宙全体に広がっている。

 川の中という限定された領域だが、そこでも各点に流速というベクトルが存在するので、そこも流速のベクトル場である。さらに、その中に置かれた物体は流れから力を受けるので力のベクトル場でもある。しかし、川の流れの場と重力場を比較すると、二つのベクトル場には本質的な違いが存在することが分かる。

保存場と非保存場

 川は左から右に流れ、メダカの学校は家より下流にあるとしているが、学校のほうが家の上流にある場合には、今度は無精者のメダカは登校するのに川底のコースを選び、下校するときは川面のコースを選ぶだろう。つまり、川が左から右に向かって流れていれば、学校が上流にある場合も、学校と家を往復するのに楽なコースは右回りになる。

 川の流れの中に、軸を水平に固定して、小さな水車を置くと、水車の羽根は流れから力を受ける。上の羽根に働く力は水車を右まわりに回転させようとし、下の羽根に働く力は逆に左まわりに回転させようとするが、上の流れが下より速いので、水車は右まわりに回転するに違いない。

 流れの場の中には到るところに水車を右回りに回転させる回転力が存在していることになる。これから、無精者のメダカは通学コースをいつも右回りになるように選ぶことが理解できよう。もし、メダカが右回りの場の回転力に逆らって、左まわりに通学コースを選んだなら、メダカは家と学校の往復に大変な労力を強いられることになる。

 一方、重力場にはそのような回転力は一切存在しない。川のなかに置いた水車を、重力場のなかの如何なる場所に持ってきても、羽根に働く重力は左右で釣り合い、回転し続けることはない。また、どのような回転装置を作っても重力のみによって回転し続けることはできないだろう。重力場のように、回転力の存在しないベクトル場 を「渦なし場」あるいは「保存場」と呼び、メダカが受ける力の場のように、回転力が存在するベクトル場を「非保存場」という。

 メダカが学校から家に帰るのに、川面のコースを選べば苦労し、川底のコースを選べばそれほど苦労せずにすむように、非保存場では、出発点と到着点を決めても、途中のコースをどう選ぶかで労力が異なる。これに対して保存場では、労力は、途中のコースによらず、出発点と到着点の二点だけで決まってしまう。

 大学から我が家に自転車で帰るのにどのようなコースを選んでも、楽なコースが存在しなかったのは、保存場のなかを通勤していたからである。保存場では、行きが楽なら帰りはその分苦労することになる。それなら、楽な下り坂でエネルギーを蓄えておき、それを上り坂で使用することは出来ないだろうか。

特製エコバイク

 電動アシスト自転車は、自転車にモーターと蓄電池(コンデンサー)を取り付け、乗り手の労力を軽減している。もし、摩擦などによるエネルギーの損失が一切ないなら、坂を下りるときに発電し、その電気的エネルギーを登るときに使えば、外部からのエネルギーの補給も、労力もなしに、家と大学の間を往復できる。そんな究極の電気自転車をつくることができたとしよう。

 この仮想的な電気自転車「エコバイク」に乗って峠の我が家から出発すれば、我が家より低地の所へ行くのなら、エネルギーなしでどこまでも走ることができることになる。我が家を出発するとき、あらかじめ蓄電池にいくらか充電しておけば、我が家より高いところにも辿りつくことができよう。もちろん、実用には程遠いが、このエコバイクに乗って、坂の街、長崎からいろんな場所へ仮想的なサイクリングにでかけてみよう。

 蓄電池に貯えられている電気的エネルギーの量は、一目で分かるように、メーターなどで表示されているとしよう。水平な道路では蓄電池のメーターの値は一定であるが、下り坂では充電されるのでメーターの値は増加し、登り坂ではその値は減少する。エコバイクの蓄電池のエネルギー量の減少分が出発点からその地点まで行くのに必要なエネルギーとなるが、それは、途中の道筋によらず、その地点の高度によって決まることになる。出発点に戻ればメーターの値も元に戻る。

 長崎のように石段が多いところも、道路がないところも仮想的な道路でつなげば、出発点から、その場所に行くのに必要なエネルギーが、メーターの値から測定できることになる。こうして、空間のいたるところで、基準点からその場所に行くのに必要なエネルギーの量が決定できる。

ポテンシャルエネルギー

 重力場のどこかに基準点を決め、そこからある場所に行くのに必要なエネルギー量をその場所のポテンシャルエネルギー(正確には、エコバイクと僕の質量の和に対するポテンシャルエネルギー)、あるいは簡単にポテンシャルという。エコバイクが、ある地点で静止した状態から、別の地点に移動し、そこに静止したとき、ポテンシャルエネルギーが増えた分だけ、蓄電池の電気的エネルギーは減少しているので、ある場所のポテンシャルエネルギーとそのとき蓄電池に残存している電気的エネルギーの和はいつも一定である。つまり、ポテンシャルとは、エコバイクがその場所にきたとき、場所自体が潜在的に持っているエネルギーということになる。

 エコバイクが坂を下るとき、ポテンシャルエネルギーが電気的エネルギーに変換され、コンデンサーに蓄えられる。逆に坂を登るときは電気エネルギーがポテンシャルエネルギーに変換される。いずれの場合にもエネルギーは「消費」されず、電気的エネルギーとポテンシャルエネルギーとの間で「変換」されているだけである。

 基準点から任意の場所までエコバイクを走らせれば、蓄電池のエネルギーの減少分から、その場所のポテンシャルが分かる。エコバイクは省エネな究極の乗り物であるとともに、ポテンシャルの測定器にもなる。重力場のような保存場には、力のベクトル場と、それに対応して、ポテンシャルというスカラー場が存在していることになる。

 ポテンシャルの値が等しい点を連ねると、一枚の曲面ができるが、これを等ポテンシャル面と呼ぶ。エコバイクが等ポテンシャル面上を走る限り、蓄電池のエネルギー量は一定である。地表付近では等ポテンシャル面は水平面であり、ポテンシャルの値を一定値ずつ増しながら、その各々に対する等ポテンシャル面をつくれば、地表付近では、等間隔の高さに配置された一群の水平面の集合をなす。

 εを微少量として、ポテンシャルの差がεである二枚の等ポテンシャル面の間隔をdとすれば、そこでの重力の大きさはε/dであり、その方向と向きは等ポテンシャル面に垂直で、かつ、ポテンシャルが減少する向きである。ε間隔の一群の等ポテンシャル面を下から上にn枚貫くとき、エコバイクの蓄電池の電気的エネルギーはnεだけ減少し、逆に上から下に貫くとき、蓄電池は同じだけ充電されて増加する。

 大学への往きは等ポテンシャル面を上から下に貫くが帰りは逆に下から上に貫かねばならない。出発点と到着点が決まっていれば、その間に貫く等ポテンシャル面の枚数は途中のコースを変えても変らない。但し、上から下へ貫く枚数を数えるとき、途中で逆に下から上に貫けば、それは負として数える。

 無精者のメダカが住む川の流れの場にも、そのベクトル場に対応するポテンシャルを定義できるだろうか。メダカの棲む川に仮想的な水中道路をつくり、基準点から目的地までエコバイクを走らせると、メーターの目盛りは途中どのようなコースを通るかによって変ることになる。また、一周して出発点に戻ってもメーターの目盛りが元の値に戻るとは限らない。例えば、川の図を右回りにエコバイクを一周させると、エコバイクの蓄電池の充電量は増え、逆に左回りに一周させると、減るはずである。つまり、非保存場ではポテンシャルを定義できないことになる。

 次に地表から遠く離れたところでエコバイクを走らせたらどうなるか。ここでも仮想的な道路を考え、エコバイクは道路から離れないように道路から束縛力を受けているとしよう。束縛力は道路に垂直であり、エコバイクには仕事をしないので、この場合もエコバイクに仕事をしてメーターの値を変化させるのは重力のみである。

 宇宙空間でもエコバイクを用いてポテンシャルを測定できるが、地球から離れるにつれ、地球の引力が小さくなるので、同じエネルギーで登れる高さは地表近くより増えるはずである。つまり、図のように、地球近傍での等ポテンシャル面は地球を囲む球面となるが、ポテンシャルの値を一定の値ずつ増加させて、一群の等ポテンシャル面を描いたとき、隣り合う等ポテンシャル面どうしの空間的な間隔は、高度が高くなるに従い、だんだんと広くなる。


 そこで、出発点を、地表でなく、宇宙空間の無限遠方にとり、エコバイクを走らせると、無限遠方を基準としたポテンシャルが測定できる。例えば、図のなかの宇宙道路Bを図の左から右へ向かってエコバイクを走らせると、はじめは等ポテンシャル面をポテンシャルの大きい側から小さい側へ横切るので、蓄電池が充電されてメーターの値は上昇し、地球に最も近い点を過ぎると、エコバイクはそれまでとは逆にポテンシャルの小さい場所から大きい場所へ移動するのでメーターの値は減少する。これから上図の中の直線A、B、C上のポテンシャルの値は、それぞれ、左図のような変化をすることが分かる。


 もし、無限遠方のスタート地点での蓄電池のエネルギー量をゼロにしておけば、エコバイクがある地点まで走ったとき、その地点のポテンシャルの値は、蓄電池に溜まったエネルギー量に、負の符号をつけた値となる。ポテンシャルの基準点を無限遠方にとれば、エコバイクが地球に近づくにつれ発電するので、蓄電池のエネルギー量はいつも正であるので、ポテンシャルの値はどこも負となる。


 宇宙空間においても地上と同じく重力の向きは等ポテンシャル面に垂直であり、その大きさは等ポテンシャル面の間隔に反比例することにかわりはない。つまり、一定のエネルギー間隔で等ポテンシャル面を描いたとき、等ポテンシャル面が密の場所は重力が強く、疎の場所では弱くなる。宇宙空間の循環道路を一周して出発点に戻れば、エコバイクが等ポテンシャル面を大きい方から小さいほうへ横切る枚数と逆向きに横切る枚数は常に等しくなるのでメーターの値はもとに戻る。宇宙空間においても、重力は周期運動に対しては仕事をしない。

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 上の二つの図から、地球は自分自身の近傍にポテンシャルの‘窪み’を作っていることがわかる。宇宙空間に小物体をおくと、物体には窪みに向かう力が働く 。つまり、ポテンシャルの勾配に等しい力がポテンシャルの減少する向きに働き、物体は運動方程式にしたがって、軌道運動をする。この軌道に沿って仮想的な道路を造り、その上をエコバイクに乗って等速で走ると、蓄電池の電気的エネルギーが増減するが、それは、軌道運動する場合の運動エネルギーの増減と同じである。


 地球の自転を考えないで、地表から無限遠方まで適当にコースを選んで仮想的な宇宙道路をつくり、エコバイクを走らせてみよう。エコバイクがポテンシャルの窪みから抜け出して無限遠方に達することができるためには、地表を出発するとき、蓄電池に一定以上のエネルギーが充電されていなければならない。

 地表から打ち上げられた物体が地球の引力圏外まで達するためには、蓄電池のエネルギーのかわりに、打ち上げ時に、一定以上の運動エネルギーが必要である。この運動エネルギーに相当する速度が第二宇宙速度である。第二宇宙速度より大きな速度で地表から宇宙に向かって打ち出せば、打ち出す方向の如何にかかわらず、物体は地球の作るポテンシャルの窪みから抜け出せることになる。

 高所から物体を落とせば、その分の位置エネルギーを仕事として取り出すことができるように、重力場のなかでの一方向の運動であれば、重力場から仕事を取り出すことはできる。しかし、それはエネルギーを創出しているのではなく、重力場のポテンシャルエネルギーを運動エネルギーに変換しているに過ぎない。両者のエネルギーの和は増えることはない。いかなる巧妙な装置を用いても、重力場のなかを周期運動させることによって仕事を取り出すことはできない。それは重力場が保存場だからである。

 無精者のメダカの通学コースに沿ってエコバイクで右回りに一周すれば、エネルギーを取り出せる。あるいは川の流れのなかに水車を置けば、水車は右回りに回転し続け、それからエネルギーを取り出せる。その場合、エコバイクや水車は周期運動をしていても、水自体は上流から下流に向かって流れていて、周期運動はしていない。

 地球規模で見れば、下流に向かって流れ落ちた水も蒸発して上空に昇りそれは雨となって山に降り、再び、川を流れ落ちるが、そのためには太陽のエネルギーを必要としている。川の流れからエネルギーを取り出しても、それは無からエネルギーを創り出したことにはならない。メダカの通学路からエネルギーを取り出しても、そのもとは太陽のエネルギーということになる。

コメント

  1. nobuyuki より:

    10年前「大学の物理教育」に投稿したものに加筆訂正したものです。
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110001942749

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