昭和40年代、四畳半一間暮らしの頃、近くの食堂でだされた野菜炒めには驚いた。肉が一切れも入っていなかったからである。どうしたことかと店主に尋ねると、「野菜炒め」と並んで「肉入り野菜炒め」と書かれたメニューを改めて見せられたが、それ以来、野菜炒めの場合には、「肉入り」であることを確かめて注文することにした。
長い学生生活のあと、学振の奨励研究員を経て、やっとの思いで、長崎大学の職にありついたが、赴任後、大学周辺の学生が出入りする食堂で、つい、「肉入り野菜炒め」と言って注文してしまった。オイルショック後の、食糧事情も急激に変化している時期に、迂闊であったが、今度の店の主人には、これが皮肉に聞こえたようである。店主曰く、「うちの野菜炒めには肉は充分入っています。」
野菜炒めの話は、今では、若い頃の笑い話となってしまったが、大学で講義するようになって、教務係から貰った講義日程表を見たとき、これと似たような、しかし、笑えない発見をした。それは「量子化学」なる学問分野の存在を知ったときである。もともと量子論でしか記述できないミクロな世界の学問に、敢えて「量子」なる修飾語を冠するからには、そうでない、ただの「化学」は、学生のとき食堂で出された「肉なし野菜炒め」のようなものだろうか。
量子論の黎明期ならまだしも、すでに、プランクの光量子仮説から1世紀近くが過ぎ、量子論を応用した生活用品が身の回りに溢れている時代に、化学者の発想は未だに試験管の中から抜け出せないでいるのだろうか。それとも、量子力学を使わずに、化学結合や化学変化をニュートン力学で説明できる「裏ワザ」でも発見したのだろうか。
実験的研究の場合には、理論よりも、むしろ、職人的な勘や経験が必要な場合もあろう。また、理論にとらわれないことが幸いして、Serendipity、つまり、瓢箪から駒がでるような発見につながることもあろう。しかし、教育の場合には、現象論にとどまらず、その基礎となる理論をきちんと教えるべきではないだろうか。
これについては化学者の反論を待ちたいが、今、大学全体を見渡したとき、一連の大学改革によって、理系も文系も基礎分野の教員数が以前に比べ激減している。さらに、独法化後は、一層の研究業績が求められるようになった。このような状況のなかで、基礎的な教育がなおざりにされ、教師も学生も、七面倒くさいことは「教えたくない」「習いたくない」という方向に向かわないだろうか。
学生の意見を授業に反映させ、講義内容の改善を図ることは大切なことであるが、「学生顧客主義」のもとで、「顧客の声は神の声」として、学生による授業評価のみが突出し、大学教育が、顧客の好みに合わせた安上がりの「肉なし野菜炒め的教育」にならないことを切に望みたい。
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